3度目のイタリア、どうなるヴォルフガングの将来&謝肉祭のお菓子と合わせる甘口ワイン

W.A.モーツァルトの旅先を巡り、現地の美味しいワインをご紹介する連載「モーツァルトとワイン旅行」。今回、ヴォルフガング少年と父レオポルトは3度目のイタリアに向かいます。

オペラ制作依頼を受け、第3回イタリア旅行へ

最初のイタリア旅行のとき、ヴォルフガングが数々の苦難の末、ミラノの謝肉祭で《ポントの王ミトリダーテ》を大成功させたことを覚えていますか?

再訪したミラノでついに自作オペラを上演&リッチな高級泡「オルトレポ・パヴェーゼ・メトド・クラシコ」

1770年12月にこの《ポントの王ミトリダーテ》を成功させたあと、ヴォルフガングのもとには早くも、次の作曲依頼が舞い込みました。それは、1773年のミラノの謝肉祭用にもオペラを書いてくれ、という依頼でした。下に引用したのは、そのときの契約書です。

アマデーオ・モーツァルト氏は、1773年の謝肉祭にミラノ宮廷劇場において上演される最初の劇に曲をつけることに同意し、その芸術上の労力に対する報酬として、130ギリアート、すなわち130g、ならびに家具つき宿舎が氏に与えられる。
契約条件は、上記作曲家氏がすべてのレチタティーヴォに音楽をつけ、1772年10月中に送付し、またアリアを作曲して上記オペラに必要な練習のすべてに立ち会うべく、翌11月初めにミラノに到着していること。 劇場で起こりうる災害ならびに主君による干渉については、これを留保する。

(『モーツァルト書簡全集Ⅱ』p.265より引用)

このとき依頼されたオペラ《ルーチョ・シッラ》K.135を書くために、モーツァルト父子は再びミラノに向かいます。これが、第3回イタリア旅行です。

今回もギリギリで仕上げたオペラ。初演の評判はいかに?

これまでこの連載を読んでくださっている方は「またか」と感じるでしょうが、今回も作曲スケジュールは遅れに遅れました。その理由は、歌手たちの到着が遅れたことです(やっぱり)。

そして今回は、出演予定だった歌手が病気で降板、代役探しに手こずり、歌手が全員ミラノ入りできたのは、なんと初演の9日前のことでした!

今回もギリギリのスケジュールでオペラを仕上げたヴォルフガング。ようやく初演にこぎつけたと思ったら、フェルディナント大公の都合で開演が3時間も遅れてしまいます。オーケストラも観客も劇場で開演を待たされ、なかには立ったままで3時間待たされた観客も多数いたようです。

そうしてやっと始まった公演。代役をつとめた歌手が大劇場に不慣れで、過剰な演技で失笑をかうなどのハプニングもありましたが、観客の評判はなかなかよかったようです。レオポルトの手紙に述べられているように、《ルーチョ・シッラ》は何度も上演を重ね、最終的な上演回数は計26回にものぼりました。

どうなる? ヴォルフガングの就活

しかし今回は《ポントの王ミトリダーテ》のときのように、次の作曲依頼が来ることはありませんでした。オペラそのものは人気だったのに次の注文がないのは、前回のミラノ訪問で述べたように、フェルディナント大公の母であるマリア・テレジアがヴォルフガングの重用を好まなかったからかもしれません。

マリア・テレジアがそんなことを思っているとはつゆ知らず、ヴォルフガングとレオポルトは今回も、しばらくミラノに留まって就職先を探しました。しかも今回、レオポルトは仮病を使ってまでミラノに滞在し、各所に就職を打診しています。当時、父子はどちらもザルツブルクの宮廷音楽家。理由もなく、ザルツブルクでの仕事を長期間お休みすることはできませんからね。

しかしその甲斐もなく、ヴォルフガングはオファーを受けられずにイタリアを去ることになりました。結局、ヴォルフガングがイタリアのためにオペラを書いたのは、このときの《ルーチョ・シッラ》が最後になるのです。

ザルツブルクでの待遇は…?

さて、イタリアでは期待した評価を得られなかったヴォルフガングですが、ザルツブルク宮廷ではこの時期、どのような待遇を受けていたのでしょうか。

「ザルツブルク宮廷音楽家のヴォルフガング」というと、ピアノを弾いたり作曲したりする姿をまず浮かべる人が多いかもしれません。しかし、このときヴォルフガングが就いていたのは、「オーケストラを統率する首席奏者」というポジション。ヴォルフガングの場合、首席ヴァイオリン奏者として働きました。作曲は二の次で、まずは演奏が重要任務だったのです。

このときヴォルフガングが就いていたのは、宮廷楽団で上から3番目のポストです。そのポストにヴォルフガングが就任したのは1769年、彼が13歳のときでした。しばらくは無給で働いていたヴォルフガングですが、第3回イタリア旅行に発つ直前、有給で働くことを認められます。つまり、昇格! 実はモーツァルト父子、こんなタイミングでイタリア旅行に出かけ、帰りの予定を仮病で引き延ばして、転職を試みていたのです。

2人の大司教、それぞれの思惑

ヴォルフガングを昇格させたのは、前任者シュラッテンバッハの死を受けて新しくザルツブルク大司教に就任したコロレドです。こうして見ると、シュラッテンバッハよりコロレドのほうがヴォルフガングの才能を評価してくれていたのかと思いますが、そうとも言い切れないようです。

シュラッテンバッハは地元音楽家の才能を伸ばすための支援をいとわず、ヴォルフガングをはじめとする若い音楽家に資金を援助し、積極的に旅行に行かせたり、留学させたりしました。こうした支援を受け、イタリアなどの音楽先進国で学んだ人たちの多くが、優秀な音楽家となってザルツブルクに戻っています。

コロレドも就任当初はヴォルフガングに報酬を与えるなど、モーツァルト父子との関係も悪くなかったようですが、両者の関係には徐々に暗雲が立ち込めます。というのもコロレドは「イタリアびいき」で、地元の若い才能を伸ばすよりむしろ、イタリアから音楽家を呼んでくることを好みました。イタリアから呼んだ音楽家には多額の報酬を支払い、地元の音楽家は冷遇。財政的理由から宮廷楽団の演奏回数・演奏時間を削減することもあったそうです。

こうしたコロレド大司教の姿勢が影響したのか、本人も言うようにヴァイオリン弾きの仕事が好きになれなかったからか、このあとヴォルフガングの心は、どんどんザルツブルクから離れていってしまうのでした。

イタリアの謝肉祭で食べるお菓子&合わせるワイン

さて今回は、ヴォルフガングのオペラが上演された「謝肉祭」にちなんだお菓子と、それに合わせるワインをご紹介します。

「おしゃべり」という名の揚げ菓子

イタリアでは各地で謝肉祭がおこなわれますが、謝肉祭シーズンに街中のお菓子屋さんに登場するのが「Chiacchiere(キィアッキェレ)」という伝統的なお菓子。小麦粉+卵+砂糖+リキュールを合わせた生地を揚げたサクサクしたお菓子で、粉砂糖やはちみつ、チョコレートなどをかけて味わいます。

「Chiacchiere」というのは「おしゃべり」という意味。このお菓子の名前は地域によって異なり、ミラノやナポリでは「Chiacchiere」ですが、ローマやペルージャのあたりでは「Frappe(フラッペ)」、トリノでは「bisie(ブジエ)」、トスカーナでは「cenci(チェンチ)」などと言われているそうです。

お菓子とぴったり! 干しぶどうで作る甘口白ワイン

この「Chiacchiere」に合わせるワインを選んでみました。Ricchi(リッキ)が造る、Alto Mincio IGT Bianco Passito “Le Cime”です。

出典:Vino Hayashi

標高250mで育てられ、きれいな酸を保った白ぶどうを収穫したあと、ゆっくり陰干しして水分を飛ばします。そうして糖度が上がり、風味が凝縮したぶどうを発酵・熟成しています。

柑橘の皮、アプリコット、紅茶やはちみつなどのニュアンスが混ざった甘さ、そしてすっきりした酸味が、余韻にいたるまで絶妙なバランスを保ちつづけ、心を満たしてくれます。

謝肉祭のお菓子「Chiacchiere」はもちろん、ほかのスイーツにも幅広く合うワイン。抜栓後1カ月ほど冷蔵保存できます。ちょっとぜいたくなデザートタイムのお供に、一度試してみてはいかがでしょう。

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3歳よりピアノを、14歳よりオーボエを始める。京都大学法学部卒業、同大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了。クラシック音楽とそれが生まれた社会との関係に興味があり、大学院では主にローベルト・シューマンの作品研究を通して19世紀ドイツにおける「教養」概念や宗教のあり方、ナショナル・アイデンティティなどについて考察した。現在はフリーライター兼オーボエ奏者として関西を拠点に活動中。