知られざる音楽と美術の関係を紐解いていくこの連載。今回の舞台はドイツの美術学校バウハウスです。建築やインテリア好きな方なら、バウハウスはよく耳にする言葉かもしれません。バウハウス作品は機能性と幾何学的なデザインが特徴で、装飾的なアール・ヌーヴォーの正反対を想像すると分かりやすいと思います。
バウハウスとは…
1919年にドイツ・ワイマールに設立された総合的デザインを学ぶ美術学校(1925年デッサウ移転)。芸術と工芸の融合を目指し、創設者グロピウスが独自の教育システムを作る。設立当初、学科は絵や彫刻・テキスタイルだったが、家具・グラフィックデザイン・建築まで拡大する。ナチスによる弾圧を受けバウハウスは14年で閉校するが、多くの教授陣がアメリカに亡命したため、彼らの理念は世界に広がった。
デザイン例:椅子『ワシリー・チェア』、書体『ユニバーサル』など
建築・デザインの殿堂であるこの学校と、音楽の関連性はあまり知られていません。本稿ではバウハウスで行われていた不思議な「音」の授業、そして音楽と深くつながり作品を残した3人の教授たちに焦点をあてお話していきます。「音」はいったい芸術にどのように影響したのでしょうか。
謎に包まれた「音」教育とは?
バウハウスの教育カリキュラムにあった「音」の授業は「Harmonisierungsleh (感性調和論)」という名前がついています。この授業は学生が専攻を決める前段階の「予備課程」という必修科目のひとつです。その授業の目的は「感性を開放し体験させる」こと。担当したのは数少ない女性教師であったドイツ出身のゲートルード・グルノウで、彼女の基礎には音楽教育者のエミール=ジャック・ダルクローズの教育メソッドがありました。
ダルクローズがリズムを重視したことに対し、グルノウは個々の音に着目していました。1オクターブ内の12音を12色の色関係と紐づけた上で、色・音・形に対して個人それぞれの感覚を研ぎ澄ませ、それらの感覚を公平に調和して使えるようにする、という取り組みをしていたようです。特定の音楽・楽曲を使用することはありません。具体的にどのように授業が進められたかはいまだ謎が多いですが、授業内容はかなり斬新なものだったと想像できます。ある学生は瞑想に近い集中力を求められ、ときに「青色でダンスを踊って!」と言われたと話しています。(参考文献:Frances Ambler著『The Story of the Bauhaus』)
この色の輪はグルノウが実際に授業で使用したものです。
メンタルトレーニングともいえる講義は学生から大変な人気を博し、教授陣まで参加していたといわれています。初期のバウハウス教育に大きな影響を与えました。色や形を、音と結びつける体験からは、スクリャービンがもっていたという「共感覚」に近い身体感覚が連想されます。ぜひこちらの記事も参照ください。
▶️神秘の世界の美しさ。作曲家スクリャービンの見た色彩感覚と絵画
グルノウは5年間教鞭をとったのち、彼女を引きいれたヨハネス・イッテン教授が退職したことを機に、1924年バウハウスを去ります。その後は心理学研究所などで研究を続けました。
音楽と深くつながる3人の教授たち
バウハウスは1919年設立から1933年に閉校するまで、それまでの芸術家の模倣や伝統ではない「新しい人間」の形成をめざしました。抽象画の先駆者ワシリー・カンディンスキーは「壁画制作」科目の教授として招かれ、授業は造形・色彩へと広がります。同様に、画家パウル・クレーも色彩と造形について教えながら、水彩・油彩・テンペラまで自ら表現の幅を広げました。もう一人のリオネル・ファイニンガーはあまり名が知られていませんが、印刷や版画などを教え、自身はイラストからキュビスム絵画に移行した個性的な芸術家です。
3人はバウハウスの教授陣の中でも特に音楽とつながりをもったアーティストといえます。彼らもグルノウの感性調和論の授業に出席していたとか…。それぞれ音楽に関した作品を見ていきましょう。
ワシリー・カンディンスキー
抽象絵画の先駆者であったカンディンスキーが音楽に大きな関心をもったことは必然だったのかもしれません。彼の著書には音楽に関する記述が多く、音楽の構成や手法まで精通していたことが分かります。スクリャービンが傾倒した神智学にカンディンスキーも触れていたことから、共感覚的な「音と色彩のつながり」は彼にとって大切な表現だったのでしょう。
バウハウス時代にもカンディンスキーは音楽との強い結束をみせます。1928年の劇場プロジェクトで、カンディンスキーは同郷の作曲家ムソルグスキーの『展覧会の絵』(ピアノ版)を上演し、その舞台デザインを手がけます。絵画を主な表現としていたカンディンスキーにとって舞台作品はこれが最初で最後となりました。その造形的な絵は、彼の指示によると映像のように動く予定だったそうです。
パウル・クレー
スイスの音楽一家に生まれたクレーは、結婚した妻もピアニストでした。彼はプロのヴァイオリニストになれる素質をもちながらも美術の道を志します。「ポリフォニー」「フーガ」といった音楽用語をタイトルに使い、音符や五線譜をモチーフにするアイデアは、音楽に囲まれて育ったクレーならではといえるでしょう。モザイクのような彼の絵からは、不思議とリズムや音の重なりが浮きあがるようです。
リオネル(ライオネル)・ファイニンガー
前述の二人に比べるとファイニンガーは知名度が低いものの興味深いアーティストです。ニューヨーク生まれのファイニンガーもクレーのように演奏家の両親をもち、音楽を学ぶ名目でドイツに渡りますが結局は美術学校に入ります。バウハウスでは印刷技術を教え、彼の木版画はバウハウスのマニフェスト(宣言文)の表紙を飾りました。
彼はバッハをこよなく愛し、同僚クレーとよく一緒に演奏していたそうです。また50歳の誕生日に作曲家の友人からフーガを贈られた際、触発されたファイニンガーはその後13日間にわたってフーガを作曲していたといいます。こちらは彼が作曲した一曲です。
ファイニンガー『フーガ 第1番』(2台ピアノ編曲版)
バッハはファイニンガーに構築的なクリエーションを教えたのでしょうか。美しい光線とキュビスムの手法で描かれた彼の絵画はグラフィック的であり、高い評価を受けています。
感覚を育てて統合する、そして新しい未来へ
バウハウスの教師たちはみな工芸・建築分野での職人、そして一線で活躍するアーティストでした。学校の創設者グロピウスはマニフェストの最後をこのように締めくくっています。
ともに新たな仕組みの未来を望み、考え、創造しようではないか。建築・彫刻そして絵画はひとつに統合され、いつの日か無数の労働者の手によって、新たな未来の結晶の象徴として天に昇るでしょう。(Gropius House公式HPより引用)
バウハウスでは「職人としての一流の技術」と「創造性あふれるアイデア」の両方を育てることが目標とされていました。グルノウの「音」の授業は、すべての基礎となる感覚を育て統合することを担っています。20世紀の芸術表現はどんどん内的・抽象に向かっており、結果的にカンディンスキーをはじめとする教師たちが音楽と深いつながりをもったことはとても興味深いことです。今回ご紹介した作品以外にも、バウハウス教師だったオスカー・シュレンマーが作ったバレエ『トリアディック・バレエ』では作曲家ヒンデミットの音楽が使われ、見て聴いて楽しめる作品です。
もし現代にバウハウスのような学校があったらどんなにおもしろいだろう、と思いを馳せずにはいられません。優れたアーティストは常にあらゆる刺激・インスピレーションにオープンであり、自覚的にそれらを育て作品に昇華していくということに、筆者自身あらためて気づかされました。バウハウスのデザインはお洒落なカフェやビルでもよく見られます。ぜひ違った視点で楽しんでいただければと思います。
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