天然痘と誹謗中傷による波乱のヴィーン滞在&泡好きにおすすめのオーストリアン・ゼクト

W.A.モーツァルトが演奏旅行で訪れた土地を巡り、そこで造られる美味しいワインをご紹介する「モーツァルトとワイン旅行」。

前回、一家は3年半にわたる長旅を終え、その後10カ月弱をザルツブルクで過ごしました。続く今回は、2度めとなるヴィーン旅行へと出発します!

2度めのヴィーン旅行、レオポルトの目論見

マリア・テレジアとその家族(出典:Wikimedia Commons

1767年、一家が故郷に1年も滞在せぬうちに第2回ヴィーン旅行に出発したのは、レオポルトにある目論見があったためでした。それは、マリア・テレジアの第9皇女マリア・ヨーゼファ・ガブリエラとナポリ王との婚礼に合わせて、ヴォルフガングとナンネルを売り込むことです。

前回のヴィーン訪問時、マリア・テレジアとフランツ一世の前で子どもたちが演奏したことは、連載第1回で取り上げました。当時まだ6歳だったヴォルフガングは、マリア・テレジアの膝に飛び乗り、抱きついてキスをするという子どもらしいエピソードを残しています。

前回、マリア・テレジアと共にモーツァルト一家の子どもたちを称賛してくれたフランツ一世は、一家が再びヴィーンを訪ねる2年ほど前、1765年にこの世を去っていました。当時の王侯貴族には珍しく恋愛結婚でフランツと結ばれたマリア・テレジアは、夫の死を深く悲しみ、自身が亡くなるまで喪服しか着用しなかったといいます。

そんな深い悲しみのなかでも、マリア・テレジアは巧みな結婚政策を続けていました。今回の皇女マリアとナポリ王との婚礼も、その一環だったのです。

一家を待ち受けていた恐ろしき伝染病

前回の西方大旅行では、旅の終盤で一家のメンバーが次々と病気に倒れたものの、その後しっかり回復して帰郷しました。しかし今回の旅行では、初めから暗雲が立ち込めます。

「天上の花嫁」になってしまった皇女

マリア・ヨーゼファの肖像画(出典:Wikimedia Commons

モーツァルト一家は、大きなトラブルもなく無事目的地に着きました。そこまではよかったものの、いざヴィーンの街に入ってみると、そこではなんと天然痘が大流行していたのです。

当時天然痘は、この世に生を受けた子どものうち半分の命を奪う恐ろしい伝染病でした。ナポリ王との結婚を控えた皇女にも、ウィルスは容赦なく襲いかかります。最高の医師たちによる決死の看病も甲斐なく、花嫁のマリア自身が天然痘で亡くなってしまいました。この上なく美しく、祝福されるべき花嫁は、本当に文字通り「天上の花嫁」になってしまったのです。

それまでは華やかな祝福ムードで満たされていたヴィーンですが、花嫁の死を受けて、街全体が祝福とは真逆の雰囲気に包まれてしまいます。もちろんその状況では、音楽を楽しむどころではなく、子どもたちの活躍の場もありません。こうして、レオポルトが当初抱いた目論見は外れてしまいました。

ヴォルフガングとナンネル、またもや死の淵をさまよう

もちろん、モーツァルト一家にとっても天然痘は大きな脅威です。一家と同じ宿で天然痘患者が出るなど危険が身近に迫ったため、一家はせっかくたどり着いたヴィーンを離れて、オルミュッツへと避難します。

これで少し安心かと思いきや、この避難はすでに手遅れでした。オルミュッツにてヴォルフガングもナンネルも天然痘を発症。2人は、前回のチフスに続いてまたもや重体に陥ります。

最近では、死者名簿に10人の子どもが載っていれば、そのうち9人が天然痘での死亡である――レオポルトはザルツブルクへの手紙のなかでこのように述べ、わが子の容態が心配で何晩も眠れず、昼間はいてもたってもいられないと、大きな不安を吐露しています。

しかし幸運なことに、闘病の末、今回も子どもたちは無事に元気を取り戻しました。ヴォルフガングとナンネルそれぞれの快復直後に送られた手紙はいずれも、聖歌であるテ・デウムのフレーズから書き出されており、レオポルトの安堵と大きな喜びが読み取れます。

Te deum laudamus!(神よ、われらは御身を讃う!)
ヴォルフガンゲルは幸運にも天然痘に打ち克ちました!

(1767年11月29日、ヴォルフガング快復後にハーゲナウアー宛に送られた書簡より。海老沢敏、高橋英郎編訳『モーツァルト書簡全集』から引用)

金欠、そしてデマとの闘い

子どもたちが元気になったあと、一家はヴィーンに戻り、宮廷に伺候します。しかし前回の訪問と異なり、あまり成果を得られなかったと、レオポルトは不満そうに語っています。ただし、マリア・テレジアと長い時間にわたって会話を楽しんだ、レオポルトの妻マリア・アンナにとっては、この宮廷訪問は忘れがたい機会となったかもしれません。

さて、やっとヴィーンに戻った一家ですが、子どもたちの音楽活動も順調にスタートするのでしょうか?

レオポルトの給与、ついに差し止められる

まず一家の前に立ちはだかったのは、経済的な問題です。あまりに長い間ザルツブルクを空けていたため、レオポルトの給与が差し止められてしまったのです。

前回の旅行から帰郷したときには、いったいどれほどの価値があるのか計算できないほど宝石や装身具を持ち帰った一家。レオポルトはそれをうまく売りさばき、さらなる富を得たともいわれています。そのような状況から一転、ヴィーンという異国の地で、モーツァルト一家は著しい金欠に陥りました。

誹謗中傷によるオペラ上演妨害

「お金がないなら、ザルツブルクに帰ればよかったのでは?」そんなふうに思ってしまうのですが、一家には、どうしてもヴィーンに滞在しなければならない理由がありました。それは「名誉」のためです。この滞在中にヴォルフガングとレオポルトは、いわれのない誹謗中傷を受けていたのです。

皇帝の一言がきっかけで、ヴォルフガングはオペラ・ブッファ《ラ・フィンタ・センプリチェ(いつわりのばか娘)》(K.51/46a)を作りました。この作品はヴィーンの劇場で演じられることになっていたのですが、ヴィーンの音楽界には、ヴォルフガングの作品を貶めて上演を邪魔しようとする勢力があったのです。

「本当はレオポルトが作ったのではないか」「この曲には何の値打ちもない」「到底上演できないだろう」などの噂がヴィーンじゅうに広がり、出演予定だった歌手たちもかつての賞賛を覆して「歌えない」と言いはじめる有様でした。劇場興行師アフリッジョがこの妨害を先導したとされていますが、レオポルトは書簡のなかで、グルックが中心人物ではないかと記しています。

なんとかしてこの噂を打ち消し、オペラ上演という実績を残すためにヴィーンにとどまった一家でしたが、結局このオペラの上演は実現しないまま、1768年の年末に旅先を発つことになります。

泡好き必飲! オーストリアン・ゼクト

さて、今回もモーツァルト一家が訪ねた土地のおすすめワインをご紹介します。今回取り上げるのは、シャンパーニュと同じ瓶内二次発酵で作られるオーストリアのスパークリングワイン、「オーストリアン・ゼクト」です。

オーストリアン・ゼクトg.U.の3区分

オーストリアン・ゼクトは、現代のように原産地呼称制度が整っていなかった昔から「ヴィーンのシャンパーニュ」として愛されていたそうです。

2013年、その品質をさらに高めるため、オーストリアン・ゼクト委員会が設立され、オーストリアン・ゼクトを3つの区分に分ける品質ピラミッドが定められました。

出典:AUSTRIAN WINE © AWMB

上の図は、品質区分をわかりやすく示したものです。実際にはさらに細かい品質基準が定められており、最高レベルのグローセ・レゼルヴェには、シャンパーニュやフランチャコルタのような世界有数のスパークリングワインと同等か、それよりも厳しいルールが設けられています。

Bründlmayer Brut(生産者:Bründlmayer)

画像出典:楽天市場

ブリュンデルマイヤーは、洗練されたワイン造りで世界じゅうのワイン関係者に注目されている、オーストリアを牽引する生産者です。

今回ご紹介するこちらのゼクトは、イギリス人ワインジャーナリストのステュアート・ピゴット氏によって「クリーミーでエレガント、最高のヴィンテージのシャンパンに匹敵する。ドイツ語圏で一番のゼクトかもしれない」と評されました。

シャンパーニュで使われるピノ・ノワールやシャルドネといった国際品種に加えて、グリューナー・フェルトリーナーなどのオーストリアらしい品種もブレンドされており、オーストリアン・ゼクトならではの味わいを楽しめます。

持続性の高い美しい泡が、輝きのある外観に映えます。りんごやアプリコットのような果実感に、はちみつの甘やかさ、そしてミネラル感が加わる、複雑で繊細なアロマ。クリーミーで優しい味わいは、あっさりとした和食にも好相性です。

シャンパーニュと比べても遜色がなく、その土地ならではの味わいも楽しめるブリュンデルマイヤーのゼクト。通販でもゲットできますので、ご自宅でもぜひ楽しんでみてください。

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3歳よりピアノを、14歳よりオーボエを始める。京都大学法学部卒業、同大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了。クラシック音楽とそれが生まれた社会との関係に興味があり、大学院では主にローベルト・シューマンの作品研究を通して19世紀ドイツにおける「教養」概念や宗教のあり方、ナショナル・アイデンティティなどについて考察した。現在はフリーライター兼オーボエ奏者として関西を拠点に活動中。