W.A.モーツァルトが演奏旅行で訪れた土地を巡り、そこで造られる美味しいワインをご紹介する「モーツァルトとワイン旅行」。今回は波乱万丈だったヴィーン旅行を終えたあとのヴォルフガングの音楽活動と、父子二人きりでの、イタリアへの新たな旅路をご紹介します。
ヴォルフガングの「賞味期限」は……?
前回のヴィーン旅行のあとヴォルフガングたちは、約11カ月間を故郷のザルツブルクで過ごしました。もちろんその間も、音楽活動は続きます。
ヴォルフガングの音楽活動
《ラ・フィンタ・センプリチェ》(K.51/46a)のことを覚えていらっしゃいますか? そう、ヴィーン旅行のさなかにヴォルフガングが作曲したものの、多くの音楽家からさまざまな妨害を受けた結果、最後までヴィーンでの上演が叶わなかったオペラ・ブッファです。
この《ラ・フィンタ・センプリチェ》は、一家がヴィーンから帰国したあと、ザルツブルクの大司教宮殿にてようやく初演されました。こうしてヴォルフガングは、ぶじにイタリア・オペラ創作の道を歩みはじめたのです。
この期間にヴォルフガングは、ほかにも数曲のセレナードやメヌエットなどを作曲していますが、なかでも特筆すべきなのは、13歳の誕生日を迎える直前に書いたミサ曲《ミサ・ブレヴィス ニ短調》K.65(61a)でしょう。ザルツブルクのために書いた最初のミサ曲であるこの作品では、彼の楽曲のなかでは珍しく、暗い調性が選ばれています。
レオポルトの次なる目論見
さて、父レオポルトはというと、またしても次の旅行を計画していました。彼は、息子ヴォルフガングの「賞味期限」を気にしていたようです。あっという間に成長していくヴォルフガングを前にして、彼の才能がこのままザルツブルクで埋もれてゆくことを恐れていました。
そこでレオポルトが次の行き先に選んだのが、イタリアです。イタリア・オペラ創作の第一歩を踏み出したヴォルフガングを後押しする意味もあったでしょう。また、オペラだけでなく交響曲などの器楽においても先進的なイタリアにヴォルフガングを送り込むことで、最新の音楽に触れさせるとともに、現地で就職先を見つけることも期待していたようです。レオポルトは、イタリアに関係の深い諸侯に推薦状を依頼するなど、広く準備を進めました。
音楽の先進国、イタリアへ
こうしてイタリア旅行が企画され、ヴォルフガングは1769年12月から1773年3月のあいだに、3度にわたってイタリアに渡ることとなります。
このイタリア旅行には、これまでと大きく異なる点がありました。それは、父と息子2人だけでの旅であるということ。姉ナンネルと母マリーア・アンナは、ザルツブルクに取り残されることになったのです。
この決断は、簡単に言えば節約のためでした。ヴィーン旅行でお金を使い果たしてしまったという経緯から考えても、仕方のないことだったのかもしれません。しかし、女性陣、特にナンネルが落胆したであろうことは容易に推測できます。
というのも少し前、一家が西方大旅行に出ている頃に、ザルツブルクの10代の少女たちがヴェネツィアに留学し、帰国して宮廷歌手となったことを、ナンネルは知っていたからです。彼女はこの少女たちに自分を重ね合わせ、将来のキャリアを思い描いていたのではないでしょうか。そこに来て、弟と父だけがイタリアに向かう――そう聞かされたときのナンネルの気持ちを考えると、心が痛みます。
いずれにせよ、ナンネルとヴォルフガングが「姉弟セット」で音楽的才能を認められる時代は、このとき終焉したといえるでしょう。
ヴェローナの人々を魅了する、ヴォルフガングの才能
ヴォルフガングとレオポルトは1769年12月13日にザルツブルクを発ち、2週間後の12月27日、イタリア北部の街ヴェローナに到着しました。
町中で大人気のヴォルフガング
父子はヴェローナの街で連日オペラを鑑賞するなど、最先端の音楽を存分に味わいました。そしてもちろん、演奏活動もおこなっています。アカデミア・フィラルモニカで開催した演奏会は、大成功を収めました。
ヴォルフガングは、ヴェローナじゅうの人々から注目を集めました。オルガンを弾こうと聖トンマーゾ教会に行った日には、町中からたくさんの人が集まりすぎていたために馬車から降りることすら難しく、腕っぷしの強い修道士たちに囲まれて人を押しのけていかなければ、オルガンまでたどり着けないほどだったそうです。
ヴェローナを滞在した記念として、ヴォルフガングの肖像画も描かれました。
この肖像画の譜面台に置かれているのは、聖トンマーゾ教会で弾いたと思われる未完の作品《クラヴィーアのためのアレグロ》K.72aだそうです。
さらに、ヴェローナの詩人たちによって、ヴォルフガングの楽才を称える詩も作られています。以下に、メスキーニという詩人による作品の一部をご紹介します。
汝がなすがごとく
黄金なす髪のアポローンは
首にかけしその竪琴を奏でつつ
天なる光をしたたらせぬ。
されど否、汝が歌によって、
汝のために彼は栄光を失えり。(海老沢敏、高橋英郎編訳『モーツァルト書簡全集』から引用。以下2つの引用も同様)
ザルツブルクに残した家族への言葉
この頃から、レオポルトだけでなくヴォルフガングも手紙を書きはじめました。故郷に残してきた家族への言葉をご紹介しましょう。
ぼくの心は、ほんとうにうれしくて、すっかりとろけそうです。なぜって、今度の旅はとても楽しいし、車のなかはとても暖かいし、それにぼくらの御者は愛想のいい人で、道が少しでも許す限り猛烈な速さで飛ばします。
(1769年12月14日、レオポルトからマリーア・アンナ宛の書簡の追伸より)
上の手紙は、ヴェローナへの道中で書かれたものです。このあとにナンネルへのメッセージが続くのですが、その箇所はイタリア語で記載されており、すでにヴォルフガングがイタリア語に通じていたことがわかります。レオポルトからの教育もあったでしょうが、ザルツブルク宮廷に何人ものイタリア人音楽家がいたことも、イタリア語習得の助けとなったかもしれません。
ヴェローナに着いてからのヴォルフガングは、ドイツ語・イタリア語・フランス語の3カ国語をごちゃまぜにした手紙をナンネルに送っています。一部を引用すると、このような感じです。
最愛のお姉さん
実に長いことむなしくお返事を待ちわびたので、気が変になりました。1日からお手紙をもらっていないので、それも当然でしょう。ここでドイツのおばかさんはおしまい、これからイタリアのおばかさんがはじまります。(以下イタリア語)あなたは想像していたよりもずっとイタリア語ができますね。
(中略)
イレーネ役は、ぼくたちがヴィーンで聴いたことのある大ヴァイオリニスト、ロッリの妹が演じます。彼女は鼻(ドイツ語)声で、常に(以下ドイツ語)4分の1ほど(以下イタリア語)遅れて歌うか、早すぎるかします。
(中略)
ぼくは常にあなたの誠実で、信頼できる弟でいることを誓いましょう。(以下フランス語)どうぞお元気で、いつもぼくを愛してね。(1770年1月7日、ヴォルフガングからナンネル宛の書簡より。括弧内は筆者記す)
現地で鑑賞したオペラ《イル・ルッジェーロ》の感想が綴られているこの手紙からは、ヴォルフガングの高い語学力もさることながら、彼の持つ鋭い批評眼(耳?)も見てとれます。また、ヴォルフガングの手紙に独特の諧謔的(かいぎゃくてき)な表現も、すでにしっかり盛り込まれています。
干しぶどうからつくる最高級ワイン「アマローネ」
さて、旅の続きは次回のお楽しみにして、ワイン紹介コーナーに移りましょう。今回は、ヴェローナでつくられる甘美な赤ワイン、アマローネを取りあげます。
かつては王侯貴族しか楽しめなかった妖艶な味わい
アマローネは、収穫後に2〜3カ月陰干ししてエキスを凝縮させたぶどう、いわゆる「干しぶどう」からつくられる赤ワインです。コルヴィーナ・ヴェロネーゼという、ヴェネト州原産の黒ぶどう品種を主体として作られます。
干したぶどうから絞られる果汁はとても糖度の高いものになりますが、この糖をすべて発酵させるため、できあがるワインはきわめてリッチかつボリューミーで、アルコールの高いものとなります(酵母は糖を材料にしてアルコールを生み出すため)。
アマローネは古くから「偉大なワイン」と称され、イタリアワインの真髄として尊ばれてきました。かつては、王侯貴族のような限られた人間しか、この美味しさを味わえなかったといいます。
Amarone della Valpolicella Classico(Bertani)
今回おすすめするのは、「アマローネの父」とも呼ばれるベルターニのワイン。ベルターニは1857年、ヴェローナ地区で初めて設立されたワイナリーで、手間ひまかけた丁寧な製法によって世界的に認められる最高品質のワインをつくっています。
こちらのアマローネは、そんなベルターニのワインのなかでも最高傑作。規定よりもはるかに長い6年間の樽熟成を経て、深遠な味わいが生み出されます。少し高級なキュヴェですが、特別な日に、うっとりするような真のエレガンスを味わってみてはいかがでしょうか。
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