W.A.モーツァルトが演奏旅行で訪れた土地を巡り、そこで造られる美味しいワインをご紹介する「モーツァルトとワイン旅行」。連載第2回以降、モーツァルト一家は3年半にもわたる大旅行の真っ最中です。
前回は、フランスの首都パリで、洗練された文化と出会ったヴォルフガングたちのようすをお伝えしました。第4回の今日は、ドーバー海峡を渡り、イギリスに渡ります!
フランスを発ち、船でロンドンへ
一家は、グリムの仲介によって得た評判をたずさえて4月10日にパリを発ち、次の目的地であるイギリス・ロンドンに向かいます。
途中、フランスの港町カレーに立ち寄り、自家用の馬車を預けました。ナンネルは、このときカレーで見た海の潮の満ち引きについて日記に記しています。初めて目にする広大な海は、子どもたちにとってどれほど印象的だったことでしょう。
その後一家はドーヴァー海峡を渡って、4月23日にロンドンに到着します。一家全員が激しい船酔いに襲われるなかなか厳しい船旅となったようですが、到着の4日後には王宮におもむき、国王ジョージ3世と王妃に謁見しています。
新しい土地でも成功を収める一家
モーツァルト一家は、パリに引き続き、ここでもまた新しい言葉と文化に接することとなりました。この頃レオポルトがザルツブルクの家主ハーゲナウアーに送った手紙には、初めて訪れた街のようす、人々のファッションや生活の在りかたなどが詳細に描かれており、ロンドンの文化が一家にとっていかに新鮮なものであったかが見てとれます。
たとえばロンドンの食文化について、レオポルトは次のように述べています。
食物ははなはだ滋養があり、実があって、強壮効果があります。牛肉、犢(こうし)肉、それに子羊の肉は、どこでお目にかかれるものよりも上等でみごとです…(中略)…ただ、こうした食物は滋養分がありすぎ、それにいろいろな種類があるビールは、まったくびっくりするほど強くて、おいしいのです…(中略)…紅茶釜が一日中火にかけてあり、訪問の際には、みんな紅茶とバター・パン、つまりたいそう薄く切って、バターを塗ったパンが出されます。おまけに昼食は二時から三時のあいだで、夜はたいていの人はなんにも食べないか、それとも、たとえばチーズ、バターにパンだけしか食べず、それに強いビールを大きいジョッキで一杯味わうのです。
(1764年5月28日、ハーゲナウアー宛の書簡より。海老沢敏、高橋英郎編訳『モーツァルト書簡全集』から引用)
同年6月5日、この新しい土地で、ナンネルとヴォルフガングは初めて公開演奏会に出演しました。この出演にあたって、レオポルトは『パブリック・アドヴァタイザー(公衆新聞)』にたいそう派手な広告を掲載しました――そこでモーツァルト姉弟は「全人類が誇るべき、究極の奇跡」「自然が生み出した驚異」などと表現されたのです。
このような触れ込みが功を奏したのか、演奏会当日はたくさんの聴衆が詰めかけました。さらに同月29日には第2回公開演奏会が開かれています。この2回の演奏会で、一家は驚くほど多額の収入を得ました。たった数時間で、レオポルトの年収を大きく上回る金額を手にすることとなったのです。
優れた音楽家たちが集まるロンドンでの交流
もちろん、音楽の面でもすばらしい出会いがありました。当時のロンドンには、外国から優れた音楽家たちが集まっており、姉弟は演奏会への出演などを通して、これらの音楽家たちと交流することができたのです。
このときヴォルフガングたちが親しくなった音楽家には、たとえば、ドイツ人作曲家のカール・フリードリヒ・アーベルや大バッハの末子であるヨハン・クリスティアン・バッハがいます。ヴォルフガングは、作曲において彼らから大きな影響を受けました。また、イタリア人カストラート歌手(去勢した男性ソプラノ歌手)のジョヴァンニ・マンツオーリとも交流しました。ヴォルフガングが彼から受けた歌のレッスンが、のちのオペラ作曲につながっているとも考えられます。
そして、バロックの巨匠ヘンデルの作品に触れたことも、ヴォルフガングにとって大きな出来事でした。このときヘンデルはすでに世を去っていましたが、当時のロンドンではまだヘンデル人気が根強く、モーツァルト一家も少なからず彼の作品を聴いたと考えられています。
姉弟が出演した第2回公開演奏会では、ヴォルフガングが晩年に編曲することになる《アレクサンダーの饗宴》や《エイシスとガラテア》の合唱曲が演奏されています。ロンドンでの経験が、長年にわたってヴォルフガングの心に強い印象を残していたことの証左にも思えますね。
レオポルト、倒れる
モーツァルト一家は、パリに続いてロンドンでも大きな成功を収めたかに見えました。しかし7月に入って、レオポルトが重い病にかかってしまいます。しばらくはロンドンで静養していましたがなかなか快復の兆しが見えず、一家はロンドン郊外のチェルシーに移ってレオポルトの療養に専念することとなります。
チェルシーでの生活
レオポルトの重い病状は、風邪を引いて服用した薬の副作用によるものだと言われています。下剤を飲み、瀉血(大量に血を抜く治療)を受けるなどさまざまな治療を経て、あとは食事を摂らなければならないと言われましたが、なかなか食欲が出ません。
そこで、きれいな空気に触れてレオポルトが食欲を回復し、気力を取り戻せるようにと、一家はチェルシーにやってきました。レオポルトはこのチェルシーを、「この世でもっとも見事な眺望をもつところのひとつ」だと述べています。どこを見ても庭園しか目に入らず、遠くには美しいお城がいくつも並んでいるこの街で、レオポルトは少しずつ健康を取り戻してゆきました。
このときの妻マリーア・アンナによる懸命で的確な対応を、のちにレオポルトが称賛しています。彼女は、多大な心労の中でチェルシーへの引っ越しを手配し、つきっきりで夫を看病し、さらに食事も手作りしました。レオポルトはザルツブルクへの手紙の中で、妻の手料理によって家族の体調がずいぶんよくなったと述べ、感謝を表しています。
ヴォルフガングによる交響曲
チェルシーで子どもたちは、ピアノを弾くことも許されませんでした。そこで始まったのが、ヴォルフガングによる交響曲の作曲です。以下のようなナンネルの記述からは、弟による交響曲の作曲が姉弟にとって新たな「遊び」としての役割を果たしたことが読み取れます。
弟が作曲し、わたしがそれを写していると……「ホルンにも活躍してもらうから、忘れないように注意してね」と弟は言いました。
(1800年1月22日の『一般音楽新聞』に初出。立石光子訳)
ここに掲載したのは、このときにモーツァルトが作曲した交響曲第1番 変ホ長調 K.16です。この第1番は、第2楽章のホルンに、ヴォルフガング最期の交響曲《ジュピター》の動機が登場していることでも有名です。このほか、K.19、19aも同時期に作られた交響曲だとされています。
ヴォルフガングがこの時期に書いた交響曲には、急-緩-急の3楽章構成であることや、旋律の作り方などに、上で述べたクリスティアン・バッハの影響が色濃く現れています。2人はたいそう親しかったようで、グリムの『文芸通信』には、クリスティアン・バッハがヴォルフガングを膝に抱き、国王と王妃の前で交互に2時間もチェンバロを演奏したようすが描かれています。
先ほどのヴォルフガングの交響曲と、以下に掲載したクリスティアン・バッハの交響曲とを並べて聴いてみると、2人の親しげなようすが目に浮かんできませんか?
♪ ヨハン・クリスティアン・バッハ 6つの交響曲 Op.18
ロンドンでの再スタート
モーツァルト一家の新しいビジネス
チェルシー滞在によってレオポルトは無事に快復し、ロンドンに戻ります。レオポルトが健康を取り戻したのは幸いでしたが、せっかく稼いだお金はずいぶん減ってしまいました。
その分を補おうと考えたのか、レオポルトはロンドンに戻ったあと、新しい形態のビジネスをはじめます。それは、「毎日12時から15時までにモーツァルト一家の宿泊先を訪れると、だれでも幼い神童たちの演奏が聴ける上に、演奏会のチケットや楽譜を購入できる」というものでした。
小さな子どもたちにとって、毎日のように見世物になる日々は、たいへん過酷だったと思われます。ちなみにこのとき、連載第1回で取り上げたヴァーゲンザイルの作品も演奏されたのではないかと言われています。
ヴォルフガングの楽才を論文で論証!?
もうひとつ、この時期の興味深い話題として、ヴォルフガングの才能が「科学的に」検証されたというものがあります。
1965年6月、ヴォルフガングは法律家兼自然科学者であるデインズ・バリントン卿と面会しています。このときバリントン卿は、初見演奏や即興演奏、作曲能力などさまざまな角度からヴォルフガングをテストし、その結果と多くの人々からの伝聞を合わせて、「ヴォルフガングの楽才に疑いがない」ことを証明したのです。
この検証の報告書は、6年後の1771年にイギリス学士院の紀要に掲載されました。ヴォルフガングがすでにこの頃から「天才としての人生」を歩んでいたことが窺えるエピソードです。
第2のシャンパーニュとなるか? イングリッシュ・スパークリングワイン
それでは、ここでワインのご紹介コーナーです! 今回は、イギリス産のスパークリングワインを取りあげます。
イギリスにおけるワインの歴史
ビールの国だと思われがちなイギリスですが、実は、高品質なワイン造りに大きく寄与した国でもあります。
イギリスでは紀元前1世紀ごろからワインが飲まれていたと考えられています。12世紀にはイングランド国王が銘醸地ボルドーの女公と結婚したことで、大量のボルドーワインがイギリス国内に供給されるようになりました。しばらくは英国でもワインが生産されていましたが、「小氷期」と呼ばれる気温の低下やペストの流行、宗教改革による修道院の解散などが原因で、国内でのワイン生産がほとんど見られなくなってしまいます。しかし、その間もイギリスは、ヨーロッパ各国から質の高いワインを買い取ることで、ワイン界の発展に貢献してきたのです。
レオポルトの手紙からは、当時のイギリス人がたいそうワインを好んでいたことがわかります。ロンドンでは、ワインに「まったくおそろしいほどの消費税」がかけられており、ビンが小さいにもかかわらず「まったく信じられない」ほどに高額であること、それにもかかわらず「みんなワインをがぶのみしている」ことが記されているのです。
このように他地域のワインをたくさん消費してきたイギリスですが、ここ1世紀ほどの顕著な温暖化によってぶどうが栽培できる地域が増え、国内でも質の高いワインが造れるようになってきました。首都ロンドンの近郊にも、広大なぶどう畑が広がっています。
大注目!イギリスの泡
イングランドで収穫されたぶどうのみで造る「イングリッシュ・ワイン」の中でも、特に注目を集めているのがスパークリングワインです。
この「イングリッシュ・スパークリング」に使われる主なぶどうは、シャンパーニュの主要3品種であるピノ・ノワールとシャルドネ、ピノ・ムニエ。イギリスはシャンパーニュ地方ともともと地続きであったという説もあり、土壌も似ているのです。
製造方法は、シャンパーニュと同じ瓶内二次発酵。そのあと最低9カ月は瓶内熟成させます。温暖化が進んでいるとはいっても比較的冷涼な気候のおかげで、シャープな酸をもった爽やかなワインができる傾向があります。
クラシック・キュヴェ・マルチヴィンテージ(生産者:ナインティンバー)
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イングリッシュ・スパークリングのパイオニア、ナインティンバーのフラッグシップワインです。
シャンパーニュと同じ石灰質土壌をもつ南向きの畑で育ち、穏やかな気候の中でゆっくり熟したぶどうを使用。熟し度合いに合わせて一区画ごとに最適な収穫時期を判断し、一房ごとに手摘みで収穫しています。瓶内二次発酵をおこない、3年以上熟成。
複雑なアロマに、繊細な果実味と生き生きとした酸味、そして蜂蜜やアーモンド、パイ生地や焼きリンゴ、トーストなどの多種多様なフレーバーが加わり、上質でエレガントなハーモニーを奏でます。
恵まれた環境と丁寧な製法、長期間の熟成から生まれるすばらしい味わいから、「ワインの国」としてのイギリスを感じ取ってみてください。
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