今日のテーマは世界一有名といっても過言ではない、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」(以下「第九」)と画家クリムトのコラボレーション。
オーストリアの画家グスタフ・クリムトは、第九へのオマージュとして、壁画『ベートーヴェン・フリーズ』を描きました。それは壁3面にわたる大規模な壁画で、第九の第一楽章からラスト『歓喜の歌』までの物語が描かれています。キラキラの金箔やイラストのように見える女性像の数々が目に留まります。
いったいクリムトは第九からどのようなインスピレーションを受けとり、絵画にしたのでしょうか? 掘り下げていくとそこにはクリムトにとっての「生」と「死」が浮かび上がってきます。
ベートーヴェン交響曲第9番 合唱つき
さて、まずベートーヴェン作曲の第九についてざっと振り返ります。第1楽章から第4楽章まで合計1時間を超える交響曲でありながらも、聴衆をその勇壮でダイナミックなドラマの中に引き込む力をもつ第九。もっとも特徴的な合唱が入る第4楽章「歓喜の歌」のメロディは、人々の団結を呼びかける強いメッセージをもっており、EU(欧州連合)のシンボル曲として選ばれているほか、ナチス時代のヒトラーによる演説時に利用されていたこともあるほどです。
ベートーヴェンは16歳のとき、ドイツ人の詩人シラーが発表した「歓喜に寄せて」に出会います。足かけ30年以上、憧れの詩はついに第九の第四楽章となりました。第九は1824年に初演をむかえましたが、交響曲に合唱が入ることは珍しく、かつオーケストラ団員にとっても演奏が難しく、興行的には失敗だったそうです(一説には大好評だったとも)。
しかし第九はそこで立ち消えず、後世の作曲家や指揮者によって弾き継がれていきます。その一人がベートーヴェンを神のように崇拝していた作曲家リヒャルト・ワーグナーです。彼があこがれの第九を指揮したときに、自ら第九における「解釈」という解説文を書きました。その物語仕立てになった「解釈」は聴衆が第九を聴く手助けとなり、第九は人気曲になったとも言われています。
美とエロスの画家 グスタフ・クリムト
クリムトといえばこの絵画『接吻』が代表作といえるでしょう。金箔と豪華な装飾モチーフで彩られたマントが一組のカップルを包み込んでいます。幸せたっぷりの愛にあふれた絵画に見えるのですが、よく全体を見ると、恍惚の表情をしている女性の足は崖の下に放り出されている状態です。男女の愛と官能を描きつつ、死と隣り合わせであるという不安も描き出しています。
クリムトは女性、官能、欲望、死をモチーフとすることが多く、また幾何学模様やゴールドの装飾で絵画を飾る技法を得意としていました。より個性的な芸術に突き進むきっかけが、クリムト自ら結成した「ウィーン分離派」の誕生です。
『ベートーヴェン・フリーズ』は、1902年分離派による第14回ウィーン分離派展でお披露目されました。展示会のメインテーマは「作曲家ベートーヴェン」。ベートーヴェンは「難聴などの苦難と戦いながら革新的な音楽を生み出した作曲家」として、分離派メンバーにとって英雄的な存在だったのです。当時の人気作曲家リストやワーグナーがベートーヴェンを崇め礼賛したことも背景にあったでしょう。展示初日には、作曲家マーラーが自ら編曲した『歓喜の歌』の金管版を指揮するなど、大きな盛り上がりを見せていました。
『ベートーヴェン・フリーズ』
クリムトは第九を一つのストーリーに仕立て、3つのパネルから成る壁画として表現しました。
1つ目のパネルは第一楽章を、2つ目のパネルは第二楽章を、3つ目のパネルは第三楽章+第四楽章『歓喜の歌』が描かれています。ぜひ絵画を見ながら音源を聴いてみましょう。
第一楽章
クリムトによってつけられたこの第一パネルのタイトルは『幸福への憧れ』。ひざまずく裸の男女(人類の苦悩を象徴する)が、金の甲冑を身にまとった戦士に希望を託すかのように手を差し出しています。月桂樹の冠を持った女性(大望のモチーフ)と手を組んだ女性(憐みのモチーフ)が戦士を見守ります。つまり、この絵画が表すのは、苦しむ人類を救おうと戦いに向かっていく戦士の姿なのです。クリムトはこんな解説を残しています。
幸福への憧れ。弱い人種の苦悩。武装した男に幸福を勝ち取るために闘ってほしいという彼らの懇願。
第九の第一楽章の冒頭は、ホルンと弦楽器が神秘的なハーモニーを奏で、オーケストラがユニゾンで印象的な第一主題があらわれます。ティンパニーを含むすべての弦・管楽器が鬼気迫るメロディを奏でるという衝撃的な第一楽章は、稲妻のようでありながら、士気をふるいたたせるかのようなエナジーに満ちています。
第二楽章
第二パネルのタイトルは『敵対する暴力の群れ』です。クリムトの解説によると、
敵対する力。神々でさえ打ち勝つことができない巨人ティポエウス、その娘であるゴルゴン三姉妹。不幸・愚行・死。邪欲、不貞、不摂生、身を切る苦悩。人類の憧れと希望がその頭上を飛んでいく。
旅に出発した戦士はおそろしい怪物と対峙します。クリムトの言う巨人ティポエウスとは巨大な猿のような怪物で、ギリシャ神話ではすべての悪の根源とされていました。その怪物の娘というのが左側の黒髪の三人、ゴルゴン三姉妹です。
三姉妹はそれぞれ、「不幸・愚行・死」を意味します。その一人はかの有名な、目があった人を全て石に変えてしまう、メデューサです。一方、怪物の右側には違った三人の女性が描かれており、それぞれ「邪欲、不貞、不摂生」を表現しています。おなかの突き出た太った女性は明らかに不摂生の象徴でしょう。右側にひとりしゃがみこむ長い髪の女性は、絶え間ない苦痛や嘆きを表現しています。
第二楽章はベートーヴェンらしいスケルツォ的な要素が強い楽章。「molto vivace (とても生き生きと)」というベートーヴェンの指示にあるとおり、躍動的なモチーフが前に突き進み、ときにはミステリアスな表情も見せます。私個人の印象では、クリムトが描く「人間がもつ内面的な悪」のようなおどろおどろしさは第二楽章から感じないのですが……みなさんの感想はいかがでしょうか。
第三・第四楽章
第二楽章と対照的に、安息と平穏に満ちた第三楽章は、聴く者を夢の中に誘うかのようです。クリムト第三楽章と第四楽章をひとつのパネルにまとめ、『幸福への憧れは、詩のなかで満たされる』というタイトルをつけました。
幸福への憧れは詩の中に終わりを見出す。~中略~『喜びよ、神々の火花よ、この接吻を全世界に』
クリムトは解説の中で『喜びよ、神々の火花よ、この接吻を全世界に』と、「歓喜の歌」の歌詞を引用しています。音楽のとおり、合唱隊、そしてクライマックスは抱き合う男女が接吻するようすで締めくくられています。
ここにまさにクリムトらしさが見てとれます。というのも、「歓喜の歌」の歌詞は全体を通して、男女の愛など一言も触れられていないのです。歌詞対訳を見れば、人類が生きていく歓喜に酔いしれ、すべての人が平和と人類愛に満たされるという、どちらかというとbrotherhoodつまり兄弟愛を賛美する内容だということは一目瞭然です。
さらに、合唱の描写では、第九は男女混声であるにかかわらず、クリムトは女性のみを描いています。クリムトによるこのおおきな意訳、そして露骨な女性表現が、『ベートーヴェン・フリーズ』が批評家たちに「不貞だ」と酷評された理由です。
抱き合う男女がすっぽり入った金色の円筒に関しては、男根もしくは子宮を模している、という研究も多数存在し、第九を描いたはずの壁画はクリムトのエロティシズムを全面に打ち出したものととらえられました。
クリムトが描いたものとは?
この作品における「クリムトらしさ」、もしくはベートーヴェンの第九に付け足されたものとはなんでしょう。それは人類の苦悩と戦う戦士の物語、女性の姿をしたギリシャ神話における悪のモチーフ、そして男女の愛です。
この背景には作曲家ワーグナーの存在がありました。クリムトは、最初に触れたワーグナーの第九解釈における「解説」をベースに、一連の壁画を制作したのです。ワーグナーは第九を、「敵対する力との闘争〜逸楽と官能〜永遠の音色」といった言葉でわかりやすく物語のように仕立て、難解で長大というイメージを覆しました。ワーグナーとクリムトは実際出会うことはなかったにしろ、多くの共通点をもっています。
芸術は神話的象徴をその比喩的な価値に即して把握し、理想的な表現を通して、象徴の内部に秘められた、深遠な真理を認識させるのである。(ワーグナー『宗教と芸術』より)
クリムトが『ベートーヴェン・フリーズ』で表現したかったものも、ワーグナーの言う「深遠な真理」、つまり人間の根源にある諸悪と戦う人間の姿だったはず。しかし描かれた女性像があまりにもセンセーショナルで、人々の目にはその性的な表現だけが目立ってしまったのです。
クリムトは生涯にわたって女性を描き続けました。ときに露骨すぎる女性描写は批評の的となりましたが、彼の描いたものは果たして「エロティシズム」といった表面的なものだったのでしょうか。
「女性」は、クリムトにとってのインスピレーションの源であり、「生」と「死」を描く題材でした。クリムトは自らの死生観を体現するために、女性というモチーフを手段に選んだのです。豪華絢爛な金箔、デコラティブな模様の背景には、人間の生死が見え隠れします。そして『ベートーヴェン・フリーズ』は第九という壮大な音楽を借りて、クリムトの世界観を壁いっぱいに描きあげた絵画といえるでしょう。
「兄弟愛」「人類礼賛」というイメージのこびりついた第九ですが、今回は一風違った新たな第九像をご紹介しました。年末の定番曲が、少し違って聴こえてくるかもしれません。
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