おなじみの芸術家(音楽家・画家)から少しマニアックな人たちや作品まで、いろいろな「音楽と絵画の関係性」を解き明かしていく本連載。第2回の主人公は、ピアノを学ぶ人にとっての憧れの作曲家ドビュッシーです。生粋のフランス人であったドビュッシーは19世紀後半から20世紀初めにかけて多くの傑作を残しました。『月の光』『アラベスク』などは大人気のピアノ曲ですね。
実は、ドビュッシー自身はピアノ演奏で一番にはなれず、かといって和声や作曲の成績も冴えないものでした。作曲クラスの先生の講評には「知的。しかし制御の必要あり」「風変わりな性質」などと書かれ、酷評というよりは、教師たちは彼の斬新な音楽に困惑していました。しかしローマ賞という作曲コンクールでの優勝をきっかけに、彼の作曲家人生が始まることになります。
文学と美術を愛する作曲家 ドビュッシー
ドビュッシーが生涯愛してやまなかったのは、文学と美術です。そのコレクターぶりはなかなかのもので、結婚して子どもができても、お給料が入ればお気に入りのアートショップで日本や中国の工芸品を買ったり、他国から美術雑誌や本を取り寄せたりしていました。その金使いの荒さは、友人に「君は家族の貧乏生活を見殺しにしている」と言わしめるほど。
しかしこうした美術工芸品は、それほどまでにドビュッシーにとってかけがえのないインスピレーション源だったのです。さっそく、ドビュッシーのアトリエ部屋をのぞき見して、そのコレクションと彼の音楽について想いを馳せていきましょう。
“美術館のような” アパルトマンに住んでいた?
次の写真は、ドビュッシーがアトリエ兼住居として住んでいたパリのアパルトマンです。
左がドビュッシー、右のめがねをかけた紳士は作曲家サティです。この写真はドビュッシーの自宅で撮影されたもので(なんと撮影者はストラヴィンスキー!)、2人の周りにはドビュッシーの美術コレクションが見えます。
まず真ん中にどんと構える仏像。これは漆塗りの木でできた日本製の仏像だそうです。研究者によると、仏像の真後ろの棚には古代エジプトの壺があるそうです。そしてサティの右後ろの飾り棚上段には、見えにくいですが、もうひとつ仏像らしきものが見えます。
ドビュッシーの部屋にある菩薩像も、この写真と同じポーズをしています。その他、ドビュッシーの部屋に入ったことのある人の証言によると、親しかった画家アンリ・ルロルの油彩画や画家オデュロン・ルドンの石版画、彫刻家カミーユ・クローデルの像など、あらゆる美術品がずらりと並んでいたようです。
華麗なる交友録とドビュッシーへの影響
他の芸術家仲間との交流(多くの女性との恋愛も……)は、ドビュッシーの音楽を豊かにし、作曲家としてのキャリアを築く大きな手助けとなりました。
学生生活のあと、ドビュッシーは裕福な人々による晩餐会や芸術家が集うカフェなど足しげく通うようになります。それは、詩人マラルメが主催する「火曜会」、こだわりの芸術書を数々そろえた書店「独立芸術書房」、キャバレーカフェ「黒猫(シャ・ノワール)」など、当時のアートを彩った伝説の場所の数々です。
そこで出会った画家は、ドガ、ホイッスラー、ゴーギャン、ルドン、ドニや彫刻家ロダンなど。ロダンの弟子で愛人であった女流彫刻家カミーユ・クローデルとは、日本の浮世絵について芸術談義を交わしたそうです。性格に難癖があるドビュッシーなので、どの交流も平和に続いたとは言いがたいですが、彼らを通してドビュッシーは作曲のテーマになる詩や絵画を見出していったのです。そして故郷フランスだけでなく、その興味はイギリス・スペイン未知の存在であった中国や日本にまで広がっていきました。
西洋からのインスピレーション
イギリスのアートから着想を得た音楽をご紹介します。ドビュッシーが25歳のときに作曲したカンタータ『選ばれし乙女』です。元のアイディアは、ラファエル前派のイギリス人画家・詩人であるダンテ・ガブリエル・ロセッティの「選ばれし乙女」という詩と絵です。
これは、恋人を残して天国に召された乙女が、地上の恋人とまた会えることを願って欄干から下を見つめて涙を流す、という切ない恋物語。ドビュッシーはフランス語版の詩を歌詞に用い、女性のソロと合唱そして管弦楽という編成の音楽を作曲しました。
ドビュッシーのこだわりは音楽だけでなく、出版する楽譜の表紙絵にもおよびました。彼は親交のあった画家モーリス・ドニに楽譜絵を依頼し、ロセッティの元の絵画とはいっぷう違った、「選ばれし乙女」を表紙にします。
ロセッティの絵画へのオマージュか、ドニが描いた乙女も欄干から左下に視線を向けています。ドニらしい平面と装飾が特徴的ですね。ロセッティが描いた叶わぬ恋物語は、ドビュッシーの手によって、この世のものではないような幻想的なハーモニーと詩情あふれる切ない歌に変わりました。
東洋からのインスピレーション
もう一枚のドビュッシーの部屋の写真をご覧ください。
こちらもおそらく、先ほど紹介した写真と同じ日に撮影されたと考えられます。左はドビュッシー、右は作曲家ストラヴィンスキー、そして今回はサティが撮影者です。この写真からもドビュッシーの部屋の様子を見ることができます。注目すべきは壁にかけてある2枚の日本絵。上のものは、かの有名な葛飾北斎による浮世絵『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。そして下のものは着物を着た女性の絵です。
ゴッホやモネが日本文化に憧れをもったように、ドビュッシーもアジア・東洋の美術に興味津々でした。パリで何度かおこなわれた万国博覧会のアジア文化紹介のブースは、一般人だけでなく芸術家たちをも驚かせました。1889年の万博にはドビュッシーも友人と訪れ、中国館やベトナム演劇、とりわけバリのガムラン音楽は彼に新たなアイデアを与えました。その後ドビュッシーはその東洋的な和声や旋法を使って作曲し始めます。ピアノ曲でいくつか試してみたのち、1905年に『3つの交響的素描(スケッチ) 海』という管弦楽作品を発表します。
聴いてみるとどうでしょう? どこかオリエンタルな、過去の西洋音楽にはなかった新鮮な響きやメロディにあふれています。ドビュッシーは『海』の中で、東洋特有の音階である五音音階、全音音階などを取り入れました。すこし日本音楽のようなハーモニーを感じませんか? 実はこれらの音階は日本の雅楽などにも使われているからです。
どこの海とも分からないエキゾチックで幻想的なこの音楽は、海が大陸をつなぐ国境のないものだと思わせてくれます。ゆらめく波、光の反射、かつて船乗りだった父、海辺の思い出……さまざまなドビュッシーの「海」が音になったのでしょう。もちろんそこには、ドビュッシーの部屋に飾られていたあの北斎の浮世絵も含まれるはずです。実際、ドビュッシーは『海』の楽譜出版の際に、出版社にその浮世絵を使うように指示しています。その表紙絵がこちらです。
北斎の浮世絵から大波の部分だけ切り取っていますね。西洋の海の絵画にはありえなかった、北斎の大胆で躍動的な波の表現は、ドビュッシーにも大きな衝撃を与えました。タイトルに交響曲ではなく「交響的素描(スケッチ)」という言葉を選んだのは、きっとこの浮世絵も含め、ドビュッシーの人生で見たあらゆる海の記憶が書きとめられているからでしょう。
ドビュッシーにとっての視覚芸術とは?
ドビュッシーは、同時代に活躍した画家との関連性から「印象派」というレッテルを貼られ、本人はこの呼び名をとても忌み嫌っていました。絵画からインスパイアされることはあろうと、当時あまりよい意味で使われていなかった「印象派」と呼ばれることは、ドビュッシーにとって屈辱だったのです。
現在の研究では、ドビュッシー作品は印象派ではなく「象徴派」(目には見えない精神世界を表現した芸術)であると言われ、ドビュッシーが「ただ単純に目に見えるものを音で再現しただけ」ではなかったと言われています。
『3つの交響的素描 海』でみられるように、ドビュッシーはあらゆる視覚的な記憶や感情を、自分の中で昇華し、音楽を生み出しました。それは単なる目から見えるもの描写ではなく、もっと奥深い、情緒や精神がからみあった世界観だったのです。
今回は一歩踏み込んで楽譜の表紙絵までご紹介してみました。ぜひあらゆる感性のスイッチをオンにして、ドビュッシーをもう一度聴いてみてください。新たな発見があるかもしれません。
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