卑弥呼のバッハ探究16「無伴奏パルティータ第2番 シャコンヌ 演奏編」

こんにちは、ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。前回の記事(▶︎卑弥呼のバッハ探究15「無伴奏パルティータ第2番 シャコンヌ 分析編」)からずいぶんとごぶさたしてしまいましたが、お約束通り、今回は「シャコンヌ」を弾きました

普段の記事ではピックアップした部分のみの動画を使用していますが、250小節以上15分間に渡る大曲から3か所だけ取り上げるのは無理なお話です。とはいえ記事1本にまとめるのだってかなり困難ではありますが、今回は1分間の動画3本で、シャコンヌ全編をハイライトのように編集したので、本文と併せてお楽しみいただければ幸いです。

テーマと変奏

 

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あまりに有名な冒頭は、前回お話しした通りシャコンヌという舞曲の形態をなぞらえています。頭から重音祭りというのは、ヴァイオリン弾きにとってはかなり体力と集中力を吸いとられるものです。しかも、シャコンヌが始まるまでにすでに4つの舞曲を弾いてあるわけですからね…! もはや気力との闘いと言っても過言ではありません。

テーマを含んだ声部をよく聞かせるために、この曲では部分的に和音を上から弾くことを選ぶ人が少なくありません。それも踏まえたうえで、わたしは全てを下から弾くことにしています。わたしの場合は、そのほうが統一感を保てると思うからです。またクラシカルな響きにしたいという理由もあります。同じ理由で、ほとんどノンビブラートという、モダン楽器奏者にとってはいくらか無謀な手段も敢行しています。

ベーレンライター社の譜面で言えば2ページ目の上半分、この動画では終わりのほうの箇所はわたしの萌えポイントで、十六分音符の細かいパッセージを抜けたあとの八分音符の連続に、勇ましさ覚悟を感じます。弾いているとここでつい気持ちが盛りあがってしまうのですが、まだ曲の序盤なので、そこはぐっと寡黙な強さをもちたいと考えています。

アルペジオの真骨頂

 

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バッハはヴァイオリンに和音を弾かせることに長けていて、なかでもアルペジオの工夫という点で後世の作曲家はバッハを超えることを困難としています。そんな彼のアルペジオの中でも、ヴァイオリンにとってもっとも有名にしてもっとも難しいのがこのシャコンヌのものです。

わたしは子供の頃、自分の師匠が「シャコンヌのアルペジオは本当に難しい」といつも口にしていらっしゃるのを、正直 “おどし” だと思っていました。譜面を眺めるぶんには、ソナタ1番のフーガのアルペジオとさして変わらないように思ったからです。でも今回練習するなかで、そう思った若きわたしに大ツッコミをかましたくなりました。むずかしいやないかーい

幼稚な感想ですが、まず純粋に左手を正確に配置するのが難しかったです。さらに右手で高速ストロークを繰り出しているので、それで音を的確に拾うためには左手を爆速で支度しないと間に合いません。いかに効率よく準備するか、頭の体操です。

そんな技術的困難を抱えていますが、バッハはドSなのか、ここ、音楽的に一種のクライマックスなんですよね。音楽にテクニックをなじませながら曲の進行をうまくドライブさせることが難しいのだと、今ならわかります。

アルペジオを抜けると、長調のセクションにたどり着きます。譜面でいう5ページ目の同音連打は、ソナタ第1番のフーガのモチーフを思わせます(なおこちら、のちにはベートーヴェンの運命の動機なんて呼ばれるものにも類似していますね)。この同音連打がト短調のフーガに似ていると思って以降、もしかしてこれまでの無伴奏ソナタ/パルティータのモチーフがもっと隠れてるんじゃないかな、と睨んでいるのですが、果たして。

祈りと救済

 

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本音を申せば、わたしは長い間シャコンヌを好むことができずにいたのもまた、この曲の譜読みを最後まで残してしまった理由のひとつです。みんなシャコンヌは特別でシャコンヌはすばらしいって言うけれど、「みんながよいと言うから、よい」とは思いたくなかったのです。

今回この曲に始めて向き合ってみて感じたのは「祈り」と「歩み」でした。3拍子のおかげで推進力を保ちながらも、バッハの質実剛健な音楽の作りを感じながら、この音楽は何か一歩一歩を踏みしめながら進むような感覚を覚えると同時に、それは唱え続ける祈りの文言のようだとも思いました。

きっと、聴く人によってはわたしのシャコンヌは一本調子だと感じるんだろうな。それでもわたしはこれをひとつの解釈として世に出したいと思います。

不思議だなと思ったのは、弾きながらふと「救われたい」という気持ちを持ったこと。祈りとは救済を得るために唱えるもので、なんなら、ヴァイオリンを弾くこと自体がわたしにとってはある種の “祈り” なのかもしれない、と思ったのでした。

誰かのために弾くということ

かのフレデリック・ショパンが残した名言のひとつに「私はただ一人の人に聴かせるために弾く」というものがあります。コンテンツ論においても、多くの人(マス)にウケることを考えるより、誰か特定の人を想定して作るコンテンツのほうが結果的にヒットすることは語られて久しいです。

わたし自身、究極の音楽は、誰かひとり特別に聴かせたい人のためのものだと考えていて、大きな会場でたくさんの人に聴いていただけるときにも、本当に聴かせたい人をひとり考えています。そのほうがわたし固有の物語を紡げると思うし、その音楽で訴えたい主張のピントを絞れる気がします。

この無伴奏ヴァイオリンのための作品群は、教会での礼拝のために毎週新作カンタータを書いていたバッハがその職を離れ、器楽のための曲をたくさん書いた時期に生まれました。もちろんバッハの中には常に「神に捧げる」という思いがあったことでしょう。しかしこの無伴奏ヴァイオリンのための、あるいは同時期の無伴奏チェロのための作品たちは、よりパーソナリティを感じます。

特にこのシャコンヌは恐らく、最初の妻マリア・バルバラのことを祈りながら書いたわけで、この曲が今日までも多くの人を魅了するのは、そのあたりに由来するのではないか、というのがわたしの見解です。

そんなことを言いながら…

わたくし当初はシャコンヌを弾くにあたり、捧げたいと思っていたある猫の存在がありました。しかし、シャコンヌをおさらいしている最中に、わたしがとてもお世話になった偉大な音楽家が、突如としてこの世を去ってしまいました。

知らせを聞いてからしばらく鬱々とした気持ちでしたが、その先生はあるときわたしに「これからも頑張って、よい音楽家になってください」という言葉を送ってくださいました。わたしなりに「弔うとはどういうことだろう」と考えた結果、先生を想って弾きたいという結論に至りました。

だからこのシャコンヌは、先生と、猫と、ふたりのことを思って弾いたものです。弾いてみたあとで、偉大な先生に対して未熟なわたしの演奏を捧げるなんて気持ちもおこがましいなとは思いましたが、弔うというのはそれぞれの人がそれぞれの方法で故人を思うことだと考えます。もちろん将来もっともっとすてきに弾ける日は来るでしょう、けれどもここはひとつ、今感じているこの気持ちを表したいと強く思いました。

さて、本日をもってパルティータ第2番を終わります。これで全6曲のうち、半分の3つを終えたことになります。次回からは無伴奏ソナタ第2番に取り組みます。どうぞお楽しみに!

ABOUTこの記事をかいた人

原田 真帆

栃木県出身。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、同大学器楽科卒業、同声会賞を受賞。英国王立音楽院修士課程修了、ディプロマ・オブ・ロイヤルアカデミー、ドリス・フォークナー賞を受賞。2018年9月より同音楽院博士課程に進学。第12回大阪国際音楽コンクール弦楽器部門Age-H第1位。第10回現代音楽演奏コンクール“競楽X”審査委員特別奨励賞。佐々木美子、山﨑貴子、澤和樹、ジェラール・プーレ、小林美恵、ジャック・リーベックの各氏に師事。弦楽器情報サイト「アッコルド」、日本現代音楽協会HPにてコラムを連載。