さまざまなセッションやレコーディングなどで活躍するピアニスト(キーボディスト)岸田勇気。加藤ミリヤや、つるの剛士といったメジャーアーティストのツアーにも参加する実力派プレイヤーでありながら、作編曲家としてドラマやアニメ・ゲームの劇伴を制作するなどその多才ぶりで注目を集めています。
そんな彼の出自は、意外なことにクラシック界。母校は、東京藝術大学です。今回のインタビューでは、業界の異端児ともいえる岸田勇気さんの波乱万丈な半生を追っていきます。
幼少期〜高校
ピアノとの出会い
まずは、ピアノとの出会いから。岸田さんがピアノを始めたのは、4歳のとき。
「母がピアノの先生だったので、自然に興味を持ち始めました。親が言うには、自分はエレクトーンをやりたがってたらしいんですが、4歳だと足が届かないのでやむなくピアノから習い始めて(笑)。6歳くらいから念願のエレクトーンも始めたんですが、中学にあがる頃にはピアノに絞りました」
勉強そっちのけで毎日何時間も練習する日々。それが当たり前だと思って育ちましたが、中学2年生のころ、自分はなぜピアノをしているんだろうという疑問を抱いたんだそう。
「ちょうど反抗期もきて、もうやめようかとも思ったんです。ただ、それまでは自分はピアノ一筋でしたが、まわりにそういう仲間が全然いなくて。もし音楽高校という、音楽に専念する環境に飛び込んだら、自分もピアノを好きになれるかもしれない。もしなれなかったらそこでやめればいい、と思い直しました。で、いざ音高へ行ってみたらやっぱりまわりも真剣なのでモチベーションがぐっと上がって(笑)」
−案の定じゃないですか(笑)
「音楽的にも、表面的な部分じゃなくて深いところまで考えられるようになって。またピアノが好きと思えるようになったんです」
戦争のような芸大受験
音楽高校の中でもめきめきと頭角を表した岸田さん。自然と藝大受験を目指す流れになりました。実はこのとき岸田さんの中でひとつの決意があったといいます。それは、藝大に行けなかったらピアノをやめるということ。岸田さんにとって藝大受験は、人生の大きな分岐点になろうとしていました。
「良くも悪くも、試験でミスしたら人生が変わる。そう思って、受験期は本当に追い込まれていました。しかも僕は地元が大阪なので、受験期間中は安いビジネスホテルにひとりで泊まって、ピアノの練習は先輩の家を借りて…という感じで心身ともに落ち着かなくて。ホテルに大浴場がついていたんですが、毎晩そこで『落ちても死ぬわけじゃない。死ぬわけじゃないから大丈夫』って言い聞かせていましたね(笑)」
−本番は、プレッシャーを克服して成功したんでしょうか?
「そうですね。とにかく集中を切らさないように気を張って。演奏に入り込めている間はミスもしないし、うまく弾けるという自信もあるんですけど、集中が切れると飲み込まれちゃう。次なんだっけって考えちゃうこと自体が、集中が切れているということなので。あのときはまだ17歳だったのに、よくやったなあと自分でも思います」
大学時代
大学で出会った仲間と組んだクラシックポップバンド
見事藝大へ入学した岸田さんは、大学2年の終わりを迎える頃、他のジャンルの音楽もやりたいなと思い始めます。
「たまたま同じようなことを考えている同級生が他にもいたんですよ。そのメンバーでクラシックポップのようなものをやってみようということになって、ヴァイオリン2人とベースとパーカッションと僕の5人でバンドを組みました。ただ、コードも読めないし即興演奏なんてもちろんやったことなくて。春休み中毎日練習室に集まって、朝から晩まで練習しました」
−めちゃくちゃ熱心じゃないですか!
「本当にすごく楽しかったんですよ! 『俺ら今めっちゃ青春だね』って言ってました(笑)。ライブも何回かやる中で同世代のいろんなミュージシャンともつながっていって、そこからクラシック以外のコミュニティがどんどん広がっていきました」
しかしその後、バンドは自然解散。その理由は…?
「早い話が、みんなクラシックの世界へ帰って行ったんですよね。でも、音楽ってジャンルは違えど根底は一緒なので、別のジャンルを学ぶことは必ずクラシックにも生きるしその逆も言えます。実際、そのときのメンバーはみんな今も第一線で活躍している人ばかりなんです」
仲間と挑戦した「クラシックポップ」をきっかけに交友関係が広がった岸田さん。ジャズのセッションに参加するようになってから、その道にのめり込んでいきます。
「ジャズのセッションに参加してまず思ったのは、『悔しい』ということ。自分は物心ついたときからずっとピアノを練習してきて、技巧には自信があるのに、即興となると全然できない。5年前にピアノを弾き始めたばかりという方がアドリブをかっこよく弾きこなしたりするもんだから、それがすごく悔しかったんです。でもこれは体で覚えるしかないと思って、ほぼ毎日ジャズセッションに通いつめました」
負けず嫌いの性格も相まって日々ひたすら経験を積み、ついにはそのジャズバーで働き始めてしまいます。
「あまりに通い詰めていたのでマスターが僕の財布事情を心配して、うちで働きなさいって(笑)。従業員はセッションに自由に参加できたんですよ。そんなことやってたので学校も行かなくなっちゃったんですが、ジャズのスキルは自分でもわかるくらいガーッと上がりました」
すると、いろいろなところからライブやサポートの誘いを受けるように。
「もちろん最初はギャラも安くて、1000円なんてときもありました。でもそれが楽しくてやっていたら、いつの間にか『毎日ジャズセッション』ではなく『毎日ライブ』になっていて。学校もいよいよ行けなくなってきたんですが、今は自分にとってすごく大切な時期なんだという確信があったので、休学という決断に至りました」
この一年でジャズをもっと自分のものにしたい。そう思った岸田さんは、ジャズの聖地であるアメリカに渡ることを決意したのです…!
上京、藝大入学という大きなライフイベントを経て、それまでクラシック一色だった岸田さんの人生は大きく舵をきり始めました。後編では、アメリカでの刺激的な生活や帰国してからの卒業試験の話など、まだまだ興味深いお話が続きます! どうぞお楽しみに♪
▶︎後編:ジャズの本場ボストンでの日々。クラシックピアノ界が生んだ異端児 岸田勇気の軌跡【後編】
ノリコ・ニョキニョキ
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