楽器の性質は、人の特性を惹きつけるもの。たとえば、そのコントロールの難しさからギネスワールドレコードで「もっとも難しい木管楽器」と認定され、リード(葦で作られた吹き口)を自分で作らなければならないオーボエは、職人気質の人を呼び寄せると言われています。
このたびは、第88回日本音楽コンクールで優勝を果たしたオーボエの 山本 楓(やまもと かえで)さん のインタビューをお送りします。楓さん曰く、「リードはいくら愛を注いで作ってもよいものができるとは限らない」ため、「何度も裏切られて裏切られて、たまに報われる」ような苦労があるにも関わらず「その独特の音色に魅せられてしまった」のがオーボエ奏者なのだと言います。今回のインタビューでは、2020年2月末に終えたコンクールのガラコンサートのようすから、コンクール挑戦中の心境、学生時代や留学中のお話をうかがっていきます。
山本 楓(やまもと かえで)
栃木県出身。東京藝術大学を卒業後、同大学大学院音楽研究科、及び英国王立音楽院にて修士課程を修了。
2013年第18回コンセール・マロニエ21木管部門第2位。2017年第34回日本管打楽器コンクール入選。2019年第88回日本音楽コンクール第1位、あわせて瀬木賞受賞。
これまでにオーボエを斎藤享久、田渕哲也、河野剛、青山聖樹、和久井仁、小畑善昭、C.ニックリンの各氏に師事。コールアングレをS.ボーリング氏に、バロックオーボエを三宮正満氏とK.スプレッケルセン氏に師事。
現在は、都内のオーケストラを中心に客演を務める他、アンサンブルやソロでも積極的に演奏活動を行なっている。
ぱんだウインドオーケストラ、MCFオーケストラとちぎ メンバー。
※インタビューは2020年3月上旬に電話で実施しました。
日本音楽コンクール、三度目の挑戦
– 改めまして、日本音楽コンクール優勝おめでとうございます。まずは先日終えたばかりのガラコンサートのことを聞かせてください。
「ガラコンサートではユージン・グーセンス(1893 – 1962)のオーボエ協奏曲を演奏しました。グーセンスは弟のレオン・グーセンス(1897 – 1988)が本当にすばらしいオーボエ奏者で、彼の演奏は今聴いても『この時代にこんな工夫とアイデアをもって演奏をした人がいるのか……!』と思わせられることがたくさんあります。
このオーボエ協奏曲はそんな弟のために作曲家のお兄さんが書いたもので、編成も大きいからなかなか演奏機会に恵まれないけれど、ずっとやってみたいと思っていたんです。ガラコンサートに出演させていただけることになって『せっかくの機会だから!』とダメ元で希望してみたら演奏できることになって、わたしも初めて取り組みました。
共演した指揮の太田弦さんも、東京フィルハーモニー交響楽団のみなさんにとっても初めてだったそうで、実際にオーケストラの皆さんが使っていたレンタル譜に書き込みがなく真っ白だったのを見て、本当にこれまで演奏されてなかったんだな、と実感させられました。リハーサル時間も限られていた中、新しい曲を用意していただいたのは恐縮で、わたしの地元、栃木県高根沢町の名物・きんとんまんじゅうを差し入れでお持ちしました(笑)」
– きんとんまんじゅう、ちょっと和みます。そんなガラコンサートに至るまで、三度の予選と本選の舞台を経験されたわけですが、どのような心持ちで挑まれたのですか。
「日本音楽コンクールのオーボエ部門は3年に1度の開催で、国内のオーボエ奏者はこの機会を待ってみんな受けます。年齢制限を考えると自分は今回が最後から二番目のチャンスで、三度目の挑戦。前回は三次で敗退したので『そろそろ結果残せてもいいんじゃないか』と自分にプレッシャーをかけながら挑みました。
でもふたを開けたら課題曲が結構斬新で、まず一次予選にアーノルド(Malcolm Arnold・1921 – 2006)という作曲家の、誰も吹いたことがないような小品が出て驚きました。オーソドックスなレパートリーなら経験値が高い人ほど有利ですが、今回はほとんどの人にとって初めての曲なので、もう大学を卒業している大人たちはほかの演奏の仕事をしながら曲をゼロから作り上げることになり、生活の大部分を自分の勉強に使える若い学生さんたちが脅威でした。落ちるなら一次かもしれないとも覚悟して、発表を見るまでかなりどきどきしました。
二次予選の曲は、誰にとってもハードだったと思います。3曲あって、①テレマンの『無伴奏オーボエのための12の幻想曲』からひとつ、②シューマンの『3つのロマンス』より第2楽章、そして③ドラティの『5つの小品』だったのですが、どの曲も体力を使うし、3つの曲でそれぞれ時代も異なるし、どれも運指が難しくて。自分は3曲とも過去に取り組んだことがあったから越えられましたが、この課題曲がレパートリーになかったらかなり大変だったと思います。
三次予選は前回悔しい思いをしたときと同じ、モーツァルトの協奏曲でした。そのときはリードがうまくいかなくて、演奏も自分で納得できるものではなく、本当に悔しくて終わったあとすごく泣いたので(笑)、今度こそ納得できる演奏をしたいという気持ちがありました。結果が書かれた紙が張り出された瞬間、遠目に数字が3つ見えたのですが、目が悪いから何番か見えていなくて『いつもなら4人は本選に残るのに今回は少ないなあ……』と思いながら恐る恐る近づいたら、自分の番号を見つけました」
– 予選で思いがけないことが続きますね。でも本選も課題が予想外だったとか…?
「本選は今回完全に自由曲のリサイタル形式で、プログラムを全て自分で決められるのは、わたしが知る限り初めてでした。プログラムを組むにあたって、まずはどう終わりたいかを考えて、デュボア(Pierre-Max Dubois・1930 – 1995)の曲を選びました。そして自由曲といっても時代をまたいだラインナップにすることは規約に定められていたので、そこからバロックを入れて、ロマン派を入れて、と構成していきました。
コンクールに挑戦するのって精神的にかなり病むことだから(笑)、せめて楽しい曲を演奏することで自分もお客さんも『ふふ』っと終われるようにしたいなぁと思って、イギリス留学中に学内のコンクールの課題曲として出会ったデュボアの『ヴァリエーション』がよいだろうと思ったんです。終わり方が“あっけらかーん”としているんですよね。ただ耳触りのわりに最後のほうなんて運指なんかもすごく難しいんですけどね……!
ロマン派も2019年に出場したスイスのコンクールの課題曲だったワルナー(Leopold Wallner・1847-1913)を入れて。誰も知らないような曲だったけど、そうして海外で仕入れてきた曲を入れていくことで、聴く人に新しい曲をご紹介できたらおもしろいなと思いました。本選の翌日に出た新聞の講評では選曲についてもお褒めの言葉をいただいたので、結果的にこのプログラムはよかったのかなあと思います」
– 1位の所感はいかがでしたか。
「反響の大きさには驚きました。結果はよくも悪くもわかりやすいものだから、自分が物事に取り組んでいる姿勢は受賞前と後で変わらないけど、周りの人の反応によって本当に一位を取ったんだなと実感させられた部分はあります。家族が喜んでくれたのは何よりだったし、演奏は聴いていなくても新聞記事を読んだ地元の友達が連絡をくれたり、これまでお世話になった先生方や、奨学生としてご支援いただいた財団の方によい報告できたのは嬉しかったです」
縁とタイミングが生んだ英国留学
– 先ほどの「海外で仕入れてきた曲」というフレーズが印象的ですが、事実お国ごとに音楽のカラーはありますよね。楓さんはどうしてイギリスを留学先に選んだのでしょう。
「修士1年目の終わりに、学校の交換留学制度を使って一度、英国王立音楽院(ロイヤル・アカデミー)に1カ月の短期留学をしたんです。それがとてもよい経験だったから、ぜひこの学校で学んでみたいなと興味をもちました。特にオーボエのニックリン先生が『機会があったらぜひおいで』と言ってくださったのは、自分にとって大きかったです。
一度ドイツ留学を試みて、いろいろなことを検討したけれど、先生と巡り合うことや、指導枠の空き状況により合否が左右されるなど、状況がうまく整わなくて諦めた経験があったので、留学の実現には縁とタイミングが大事だと痛感していました。だからせっかく先生にそう言ってもらえるなら、その機会を生かしたいと思ったんです」
– 縁とタイミング……人生の中で決断を迫られるたびにリフレインしそうなフレーズです。在学したロイヤル・アカデミーの雰囲気はいかがでしたか?
「印象に残っているのは、マスタークラスやちょっとした発表の場で、学生同士がお互いの演奏に対して忌憚(きたん)なくオープンに意見を言い合う雰囲気です。アカデミーではパフォーマンスクラスと呼ばれる、普段習っている先生とは別の先生のレッスンを受けながら、複数人でお互いの演奏を聞き合う活動があります。そこでは先生からほかの学生の演奏に対して思ったことを尋ねられることも少なくありません。
それって自分の母国語である日本語でも難しいことだと思うのですけれど、王立音楽院の活動の中で、学部生も院生もよい意味で遠慮なく、お互いに率直な意見を伝えるシーンを目の当たりにして、とても勉強になりました」
– ロンドンは楓さんから見てどんな街でしょう。
「そうですね、ロンドンは学生に優しい街で、学生特権でさまざまなコンサートのチケットをお手頃な価格で購入できたり、美術館や博物館の常設展が全て無料で見らたりするので、お金をかけずともいろいろなアートに触れることができます。そのチャンスは活かさなきゃと思って、積極的に演奏会やオペラ、バレエに行くようにしていましたし、美術館も入場無料のところはほぼ全部行ったんじゃないかと思います」
– ほぼ全部ってすごい! ちなみに、推し美術館は?
「V&Aと呼ばれるヴィクトリア&アルバート博物館はただただ目の保養です。近視のせいもあるかもしれないけれど(笑)、手元で見られるものが好きで、よく銀食器のコーナーの本当に繊細な装飾がほどこされたスプーンをじーーっと見つめていました。近現代アートに特化しているテート・モダン(Tate Modern)も好きですね」
オーボエとピアノで悩んだはずがフルート担当に!? 音楽を始めたきっかけ
– 2018年に留学を終えて、休学していた東京藝大に復学されたわけですが、そもそもどういった経緯でオーボエに出会って、藝大に進学されたのでしょう。音楽を始めたきっかけを教えてください。
「もともと幼い頃はピアノをやっていました。オーボエと出会ったのは、宇都宮のジュニアオーケストラの演奏会です。兄がジュニオケでティンパニを叩いていたので聴きに行ったときに、そこでオーボエってすてきだなと憧れました。その頃オーボエ奏者の宮本文昭さんのCDもヒットしていて、図書館で借りてきて『オーボエの音色いいなぁ』と思いながら聴いたことを覚えています。
そうしてオーボエに興味をもっていたので、中学校に進学するときに吹奏楽部に入ろうかなと思いました。でも小学生の頃はコンクールに出るくらいピアノをがんばっていたから、ピアノをとるか吹奏楽部に入るか悩んで、決めきれずに大泣きして……」
– そのときの、ご家族のリアクションは……?
「自分で決めなさいと(笑)。よくよく自分のことを考えて、もしピアノをがんばるとしたら、子供の頃に骨折をしたことがある左手が練習の負荷に耐えられるだろうかとも思ったし、ピアノを弾くことはほとんどひとりで取り組むものだけれど、誰かと一緒に演奏するのは楽しそうと思って、吹奏楽部を選びました。
ところがそのとき学校の備品にオーボエがなくて、入部してすぐは学校で借りられたフルートを担当することになりました。でもフルートを吹きながらずっとオーボエを横目に『いいなあ』という思いがあったので、2年生になる頃、両親にお願いして楽器を買ってもらってオーボエを始めました。と言ってもフルートを吹くのも楽しかったから、今でもたまに吹かないこともないです(笑)
結局吹奏楽部に入っていたのは中学時代だけですが、兄のいたジュニオケにも入って、そちらは高校2年生くらいまで参加していました。オケの曲はもともと聴くのが好きだったから、自分で演奏できるのは楽しいなあと思っていました」
– 高校は普通科で学ばれたんですよね。音楽と学業はどのように両立させていましたか?
「今考えると、高校時代はよくがんばったなと思いますね。高校に入った頃、音楽をより深く学びたいなと思って、それなら国立である東京藝大に行きたいと目標を設定したけれど、学校は進学校だったので周りは勉強モード。その雰囲気を崩したくなくて、周りに取り残されないように最低限の予習復習はしようと思って、お昼ご飯食べながら勉強したり、なるべくバスや電車の時間を使って勉強を済ませたりして、帰宅したら楽器の練習に時間を使えるようにしていました。
どこか頑固なところがあるというか、やるって決めたらやる、という性格が手伝ってやり遂げましたけれど、10代だったからできたとも思います。今もう一度、と言われたらちょっとしんどいかな……(笑)」
– シビアな受験勉強を経て大学に進学したとなると、少し開放感もあったのでしょうか。
「高校時代がそんなふうにかなりストイックだったので、大学では音楽だけに全ての時間を使えるということが、これってもしかしてすごく幸せなのでは? と思いました。ですが、いざ入学してみると、周りには天才と呼ばれているような人もいれば、音楽高校出身の人は知識が多いし、そもそも東京にいるってことにどきどきしちゃって(笑)、もう常に緊張で呼吸が浅いというか……! 周りに追いつこうと必死に過ごしていた気がいます。
学部の初めの頃は栃木から通っていたけれど、次第に『リードを作る時間がない!』と思って途中から学校の近くに下宿していました。よっぽど新幹線に乗っている間に作れたらいいのに! と思った日もありましたけれど、リードを削るのに刃物を使うので、それは無理だな、と」
– リードの準備はオーボエ奏者にとって死活問題ですが、確かに新幹線で刃物は扱えないですね(汗)。楓さんにとって大学時代のハイライトは何ですか?
「学部1年の必修科目に管打合奏というアンサンブルの授業があって、でも2年生になると上級生とのオーケストラや吹奏楽が始まって学年単位での合奏の機会はありません。だから管打合奏の最後の授業のあとで『同級生での合奏を続けたいよね』という声が上がって、それが卒業後の今も続いて『ぱんだウインドオーケストラ』として活動しています。
今はそれぞれのフィールドで頑張っているみんなが、ひとたび集まると学生時代に戻ったみたいに打ち解けられるし、同級生という安心感があるから、音楽のやりとりもいろいろなことに挑戦できるのが楽しくて。演奏は毎度、それぞれがやりたいことやって爆発、という感じです。
4・5人での室内楽のグループだって継続することはなかなかできないのに、この人数で活動してるいのって本当に奇跡みたいなことです。いろいろな意見をひとつにまとめて団体の運営をするのは簡単ではないけれど、できる限り続いていったらいいなと思います」
オーボエのすてきな曲を届けたい
– 大学院では何をテーマに論文を書かれたのですか?
「最初にお話しした、レオン・グーセンスのために書かれた室内楽作品を集めて比較したりしました。グーセンスは時代のスターだったので、エルガー、ブリテン、ヴォーン=ウィリアムズなど、イギリスの名だたる作曲家が彼のために曲を書いています。それらの作品は今日ではオーボエの定番のレパートリーとして残っているものもあれば、知る人ぞ知る名曲もあって、作品を探していく作業は非常におもしろかったです」
– イギリスに留学されていたからこそ、ぜひそういった作品を広めていってほしいです。啓蒙という点で言えば、後進の指導などは取り組んでいますか?
「地元の強豪校、作新学院の吹奏楽部の指導に携わっています。特に定期演奏会を聴きに行ったときには、ずっと練習の過程を見ていた子たちが舞台に出て演奏している姿を見て泣けてきちゃって(笑)。若い子のまっすぐな努力っていいですよね。ひたむきな姿勢でがんばる生徒さんは本当にかわいくて、指導に一生懸命応えてくれるので、すごくやりがいがあります」
– 定期演奏会で泣けたとは……。きっと生徒さんも先生のその愛に応えてくれたんですね。ソロでの演奏、アンサンブルに指導と、様々な活動に取り組まれていますが、最後に、今後挑戦してみたいことを伺いたいです。
「リサイタルは近々やってみたいですね。留学の成果をご報告できるような機会をまだ持つことができていないので、それはどこかのタイミングでぜひ実現したいなと思います。また論文で集めた楽曲は本当にすばらしい作品がたくさんあるので、こういった曲を実際にみなさんにお聴かせできるチャンスがあるといいなあとも思います。
またこれから日本音コンのガラコンサートのツアー*も予定されていて楽しみにしていますし、栃木県の那須野が原ハーモニーホールでも開催されるので、ぜひ地元の方にも聴いていただけたら嬉しいです」
*編集部注:インタビュー実施後に、楓さんが出演予定だった2020年4月16日のガラコンサート名古屋公演が中止になってしましましたが、6月20日に予定されていた栃木公演は2021年の8月に延期の予定です。詳細は公式情報(外部サイト)をご参照ください。
語り口は淡々としていながらひとつひとつのエピソードがエモーショナルで、ピアノと吹奏楽の選択をするときに号泣したり、強い意志で音楽と勉強を両立生活を駆け抜けたり、指導校の演奏会で涙したりと、インタビューを通して楓さんの情熱を感じました。
その反面、近視だからと言って美術館で銀食器をずっと眺めていたことや、コンクールの結果発表がよく見えないといったお話は、マイペースで飾らない人柄を象徴するようです。
静かに熱い意志をもって、物事にじっくり取り組むさまは、まさにオーボエ奏者がリードを作る姿に重なります。急いでも、数を打ってもだめ。丁寧に黙々と向き合ってやっとできたリードを伴って、さらに技術や音楽性を磨いた先にあるのが、オーボエの音色なのです。
ご本人は「だからオーボエ吹きってちょっと変態かもしれない」とユニークに表現されていましたが、ほかの人にはまねできない職人技を貫くオーボエ奏者に、筆者は感嘆が止まりません。
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