ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。放課後の音楽室で、お茶を淹れながら「今の教科書」に載っていない音楽の話をしたいというコンセプトでお送りするこの連載。第7回目の本日は、スウェーデンの作曲家でヴァイオリニストのアマンダ・マイエル(Amanda Röntgen-Maier, 1853-1894)を取りあげます。
※コラムの最後に、この連載に連動した演奏会のお知らせがあります。
音楽で学位を得たスウェーデン最初の女性
本日お届けする1曲は、アマンダ・マイエルが1879年に書いた『ヴァイオリンとピアノのための6つの小品』より第2曲『Allegretto Con Moto』です。
マイエルはスウェーデンのランズクルーナという街に生まれました。縦に長いスウェーデンの中でも南のほう、デンマークとの間の海を臨むロケーションです。彼女の父親はパン職人ながら、最初の音楽教師としてヴァイオリンとピアノの手ほどきをしました。
1869年、16歳でストックホルム王立音楽大学に進学し、ヴァイオリンのみならず、オルガン・ピアノ・チェロ・作曲に和声とたっぷり勉強。その3年後に卒業しますが、スウェーデンにおいて音楽で学位を与えられた女性はマイエルが最初でした。今回当たった資料ではいずれも、このあたりはさらっと言及されるに留まっているので、我々も先へ進みましょう。
マイエルはその翌年からライプツィヒ音楽院に学びます。この連載でも何度か出てきている街です。それぞれのコラムで扱っている時代も近いので、当時いかにライプツィヒが“憧れの街”であったかがうかがえます。事実、第4回で登場したエセル・スマイスとマイエルはライプツィヒで遭遇して互いに良い影響を与えます。マイエルはスマイスの5歳上で、2人の若き作曲家の邂逅はマイエルのヴァイオリンの師匠の自宅でのことでした。
協奏曲の自作自演が成功を呼び込む
実はこのヴァイオリンの師匠というのが、のちにマイエルが結婚するユリウス・レントゲン(Julius Röntgen, 1855-1932)の父親で、長年ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを務めたエンゲルベルト・レントゲン(Engelbert Röntgen, 1829-1897)です。結婚は1880年のことなのでその話題はあとに譲るとして、引き続き1870年代のマイエルの活躍を追いましょう。
1873年にライプツィヒ音楽大学に入ったころ、20歳のマイエルはヴァイオリン・ソナタを作曲します。さらに腕を磨くこと2年後、1875年にはヴァイオリン協奏曲を書き、なんと名門オーケストラ・ゲヴァントハウス管弦楽団と自身のソロで初演。ライプツィヒ近郊のハレでおこなわれたこの初演が成功を収め、それをきっかけに様々な演奏会が企画されました。そのうちのひとつには、ライプツィヒの演芸文化の中心的な劇場・ゲヴァントハウスでの公演もありました。
翌76年に音楽大学を卒業したマイエルは、恐らくそこから大手を振るって演奏の仕事に邁進したのでしょう。故郷スウェーデンの王立歌劇場でオスカー2世の臨席のもと御前演奏をしたり、北欧三国に加えロシアはサンクトペテルブルクにも巡ります。
このときスウェーデンでメディアの報道が加熱し、発表もしていない作品の噂まで立てられていたという説もあり、抱える悩みは現代の音楽家と変わらないなぁというのが筆者の感想です。とは言えこの間(かん)にもコンスタントに作曲には取り組んでいて、冒頭でご紹介した『6つの小品』(1879年)なども、ブレイクのきっかけとなった協奏曲同様に自分で演奏することを想定して書いたのではないかと想像します。
そんな大成功の裏側で、1877年には最初の教師こと父親が死去。この前後で書いていた弦楽四重奏は完成させられないまま遺されました。2018年になって補筆版のレコーディングがおこなわれ、その録音にはスマイスの弦楽四重奏がカップリングされています。スマイスは作曲途中にこの譜面を持って結婚後のマイエルと夫の家を訪ねたのだとか。
時の音楽家が足繁く通う夫妻運営のサロン
スマイスのみならず、マイエルと夫で作曲家のレントゲンの家は様々な音楽家が出入りしては音を出して楽しむサロンとなっていました。
大活躍の1870年代を経て、1880年に作曲家レントゲンと結婚したマイエル。演奏活動はヨーロッパの北側での活躍が目立ちますが、実は76年にはすでに婚約しており、もしかして時折ライプツィヒに戻って会っていたのかも…いや、レントゲンは77年にアムステルダム留学を開始しているので、以降はそちらに立ち寄ることもあったでしょう。

(出典:Wikipedia)
夫レントゲンのほうはピアニストでもあり、同じくピアニストだった母親パウリーネ・クレンゲル(Pauline Klengel, 1831-1888)に習い始めて以降は、かのフランツ・リストに神童と言わせしめるところを皮切りに、その後も一線で活躍し続けました。ソリストとしてブラームスのピアノ協奏曲第2番を本人の指揮で演奏したこともあれば、ヴァイオリニストのカール・フレッシュやチェリストのパブロ・カザルスとの共演もしばしば引き受けるなど、アンサンブル・ピアニストとしても人気。結婚後もアムステルダム拠点で活動したということで、つまりアマンダがオランダに越してきた形ですね。
アマンダは結婚後に何と表立った演奏活動をやめてしまいました。それが本人の意思か、あるいは社会的風潮を鑑みてのことか、急だったのか徐々に起こったことなのか…今回読んだ資料では理由や状況がはっきりとはわからなかったのですが、1881年に出産をしていることから考えると時期的に子育ての影響という可能性は高そうです。
しかし先述のサロンでは音楽家たちが半分遊びのような感じで弦楽四重奏を奏でたり、作曲途中のものを持ち込んだりして交流していたために、身内の前では演奏していたのでしょう。主だった訪問客に、ニナ&エドワルド・グリーグ夫妻、アントン・ルービンシュタイン、親友同士のヨーゼフ・ヨアヒムとヨハネス・ブラームス、そして本連載第2回に登場のクララ・シューマンが挙げられます。ここでも連載の登場人物同士の交流が見られて嬉しいですね!
表舞台での活動を控えるようになったマイエルですが、ただし作曲活動はやめません。やめませんが、これを「結婚を機に作曲と家庭に注力することにした」と書く向きもあれば、「結婚後、表向きの演奏活動は途絶え、作曲もペースが落ちてしまった」と書く向きも。事実、1880年代に書かれた作品はあります。しかし1881年の(恐らく)第一子と1886年の第二子のあいだに3度の流産、さらに第二子が夭逝(ようせい)し、その後1887年ごろには自分自身も結核(または胸膜炎?)を患ったマイエルに、音楽活動の余力はどれほどあったでしょう。
1887年以降、夫妻は連れ立って南仏やスイスでの療養や北欧への避暑などをして何とか過ごしますが、マイエルは快癒はしないまま1894年にアムステルダムで亡くなります。実にまだ41歳でした。最後の作曲は1891年のピアノ四重奏。この譜面はオランダの出版社によって2010年に出版されています。
不思議なことに、夫ユリウス・レントゲン側の経歴を追っても、こうしたアマンダ・マイエルのストーリーは全然浮かび上がってきません。これだけのドラマがあるのに? レントゲンがすばらしいピアニストであったことや、優れた作曲家であることは、業績からうかがい知れます。ただ、それだけの活躍の裏側に、家族の犠牲を想像してしまうのはうがった見方でしょうか。もちろんレントゲンもマイエルの看護に最善を尽くしたことでしょうし、死んだ人の悪口を言うものではありませんが、音楽家としてますます活躍を見せる夫を前に、体調も悪くて思うように活動できないヴァイオリニスト・マイエルは何を思っていたのだろうか、と心境をおもんぱかってしまう筆者でした。
コラムが、動画が、本物の演奏会になる!
今回の音楽には百貨店ハロッズのプライベートブランドのイングリッシュ・ブレックファーストを添えました。少しはちみつを溶かしています。スウェーデンにもオランダにもゆかりの無いもので恐縮ですが、はちみつを入れた紅茶の、鼻に抜ける香りの鮮やかさが、この曲の軽やかだけど少し切なく尾を引く余韻に合う気がしたもので……。
こんなふうに動画とコラムを連動して連載してきましたが、今日はお知らせがあります。こちらの動画シリーズでこれまでに演奏してきた楽曲を集めて、筆者こと原田真帆、リサイタルをおこないます!
連載のほうはまだ動画の最新作に追いついていないのですが、動画のほうは全て並べると2時間に及ぶ量になったところです。わたしがこの音楽+お茶の動画シリーズを撮り始めたのが2020年のこと。そのときに「この動画を重ねて2時間分貯まったら、そのレパートリーでリサイタルを開くんだ」とひっそり心に誓ったのです。足掛け5年、ついに実現です。

ところが、読者の方にお知らせする前に、何と会場チケットが完売してしまいまして…でも本公演はライブ配信券を用意しており、こちらのご予約を受付中です。配信は当日5月5日の15時の開演時からのライブ配信はもちろん、公演2週間後までアーカイブ配信のご視聴も可能です。配信はYouTubeの「メンバーシップ登録者限定配信」の形でお送りします。
詳しくは下の動画の概要欄、また動画の下に記載の特設サイトにてご案内しております。画面を通してお目にかかれれば嬉しいです! 配信視聴者の方だけができる特権「ご自分のお好きなお飲み物を楽しみながらくつろいで聴く」をどうか存分に味わっていただけると、演奏者冥利に尽きます。
参考文献
Bijdragers aan Wikimedia-projecten. “Nederlands Componist (1855-1932).” Wikipedia.org. Wikimedia Foundation, Inc., July 31, 2005. https://nl.wikipedia.org/wiki/Julius_R%C3%B6ntgen.
Brown-Cáceres, Nicholas A. “Discovering Composer Amanda Maier | in the Muse.” The Library of Congress, November 22, 2016. https://blogs.loc.gov/music/2016/11/discovering-composer-amanda-maier/.
Fine, Elaine. “Unjustly Neglected Composers: Amanda Maier.” Blogspot.com, April 10, 2025. https://musicalassumptions.blogspot.com/2009/12/unjustly-neglected-composers-amanda.html.
Haan, Pieter de. “Pauline Frederika Klengel.” geni_family_tree, May 25, 2018. https://www.geni.com/people/Pauline-Klengel/6000000000235963778.
Konserthuset Stockholm. “Maier-Röntgen Violin Concerto.” Konserthuset.se. Konserthuset Stockholm, 2019. https://www.konserthuset.se/en/play/maier-rontgen-violin-concerto/.
Mahler Foundation. “Julius Rontgen (1855-1932),” May 20, 2019. https://mahlerfoundation.org/mahler/contemporaries/julius-rontgen/.
Musicweb-international.com. “Maier Quartet DB PRODUCTIONS DBCD197 [SSi] Classical Music Reviews: May 2021 – MusicWeb-International,” 2021. https://www.musicweb-international.com/classrev/2021/May/Maier-quartet-DBCD197.htm.
NML Naxos Music Library. “アマンダ・レントヘン=マイエル,” 2025. https://ml.naxos.jp/composer/129265.
Wikipedia Contributors. “Amanda Röntgen-Maier.” Wikipedia. Wikimedia Foundation, March 7, 2025. https://en.wikipedia.org/wiki/Amanda_R%C3%B6ntgen-Maier.


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