東京藝術大学ピアノ専攻を卒業し、スタジオ系ミュージシャン、トラックメーカーとして活動するキーボディスト岸田勇気さんにインタビューしています。
前編では、ピアノに打ち込んだ幼少期から、大学でジャズに出会うまでのエピソードを伺いました。
▶︎前編:「クラシックからポップスへ。クラシックピアノ界が生んだ異端児 岸田勇気の軌跡【前編】」
ジャズピアニストになるために大学を休学して単身アメリカはボストンに渡った岸田さん。そこでは想像を絶するハードな毎日があったと言います。
アメリカ時代
ジャズの聖地アメリカへ
「ボストンのバークリー音大には優秀な学生が集まるのでそこで学びたいなと思ったのですが、いかんせん学費が高くて…仕方ないので、バークリー音大の近くに住んで彼らのコミュニティになんとか入り込もうという作戦を立てました」
−えっ!? コミュニティに入り込むってどうやって…?
「さすがに座学の講義は受けられないので、実技の授業だけ友達のツテを使って潜り込ませてもらったり、レコーディングセッションに呼んでもらったり…。そんなことしてたので、先生は僕のこと生徒だと思ってたみたいです(笑)」
−しぶとさが普通じゃない…!(笑)
「先生に『俺バークリー生じゃないです』って言ったら『マジかよ!』ってリアクションしていましたね(笑)。でも、そもそも潜り込むのが目的じゃなかったんですよ! 理論はもう十分学んだから、あとはとにかく実践を重ねたいと思っていて。バークリー生の友達を作れれば、セッションの機会も生まれるだろうと思ってバークリーの近くに住んだんです。実際本当にたくさんの機会に恵まれて、毎週日曜日は教会でゴスペルのオルガンを弾いたり、水曜日の夜は黒人バンドに加わってバーで生演奏したり。本場の音楽に囲まれる生活でした」
耳を疑うようなサバイバル能力で実地訓練を重ねた岸田さんですが、さすがに大変だったと当時を振り返ります。
「まったく英語をしゃべれないまま行ったので、友達の紹介でいきなり黒人バンドに入れられたときは大変でした。もちろん本当にすばらしいチャンスを与えてもらったと思いましたし、意気込みも十分だったんですが、なんせ急な話で、なんの曲をやるのかもわからないし、それ以前にどうやって集合場所に行けばいいかもわからない(笑)。バントリーダーから電話がかかってきて、いろいろ指示されるんだけれども全然聞き取れない。メールしてくれと頼んで必死についていく日々でした」
中でも、一番つらかったのは、バーでのセッションでピアノを弾いていて、お客さんが飛び入りで歌うことになったときだそうです。なんの曲をやるのかわからなかったけれど、まわりに合わせてついていこうと思っていたら、なんとリクエストされた曲はピアノがイントロを担当する曲だったそう!
「とにかく英語が聞き取れないから曲名を言われてもさっぱりわからない。“Yuki come on! ” とか言われるんですけど知らない曲のイントロ弾けないじゃないですか(笑)。会場にいた300人くらいのアメリカ人の視線が僕に注がれて…しかも9割黒人で、もう冷や汗だらだら。僕が『わからない、弾けない』と言うとお客さんもざわつき出して、飛び入りした人も『なにこのアジア人、本当に弾けるの?』という顔。メンバーにも “Oh my god…” って言われるんですけど、僕も半泣きで『しょうがないじゃん、わかんないんだもん!』って(笑)。結局別の人が代わりに弾いてくれたんですが、いざ聞いてみたら知ってる曲だったっていう(笑)」
−うわあ、それよく心折れなかったですね…!
「ある意味演奏よりもメンタルが鍛えられたかもしれないです。最終的にはコミュニケーションも取れるようになったんですけど、最初は相当不思議ちゃんだと思われていたようです。何言っても無口でリアクションもない。すごく恥ずかしい話ですけどね」
見よう見まねで始めた作曲
岸田さんが作曲を始めたのは、ボストンでの暮らしが落ち着き始めた頃。DTM(desk top music)と呼ばれるトラック制作を始めました。
「始めたきっかけは単純で、暇だったからです(笑)。夜はバーで演奏する毎日だったけど、昼間はバイトもしていなかったし友達もみんな学校に行っていたので、めちゃくちゃ暇でした。なにか新しい技術を習得したいなと思ってトラック作りを始めたんです」
現地でできた日本人の友人は、映画音楽や劇伴の作曲を専攻している人が多かったそう。彼らにいろいろなテクニックを教えてもらいながら作曲に打ち込むうち、それまで洋楽ばかり聞いていた岸田さんに変化が起きます。
「本格的に作曲を始めてから、日本のポップスやロックも、作曲的な耳で聞いてみるようになったんです。それで、『J-popを作ってみたい!』と思うようになりました。渡米した当初は、ジャズピアニストになるため5、6年は修行しようと思っていたのですが、トラック制作を始めてから、『ジャズやブラックミュージックだけが選択肢じゃない。日本のポップスやロックにも挑戦できるフィールドがあるな』というように視野が広がったんです」
その後、帰国して藝大を卒業したことを決意した岸田さん。3年ほどクラシック音楽から離れていましたが、卒業試験を受けるため、またクラシック音楽と向き合うことに。
卒業試験
「休学前にレッスンの単位は取り終わっていたので、卒試までひたすらひとりで練習しました。担当教官にも卒試前日に初めてお会いして、『はじめまして、明日はよろしくお願いいたします』って挨拶するっていう…」
−完全に問題児ですよね(笑)。でもアメリカであれだけメンタル鍛えたから、緊張もしなさそうですが。
「いや、相当緊張しましたよ。クラシックは、かっこよければオッケー! という世界じゃないので。譜読みも、ピアノ独奏もすごく久しぶりだったし、ちょうど F-Blood(藤井フミヤさん、藤井尚之さんのユニット)のツアーをまわっていたときだったんですが、夢に出てきてうなされました(笑)。でも、やっぱり他のジャンルを学んできたからこその強みもあって、リズムに対してシビアになったし、和声や理論についても理解が深まっていたので、以前よりも音楽的に進歩したと評価していただけたんです」
※まねしないでください。
現在の岸田勇気
藝大を卒業後は日本に残り、演奏と作編曲の2つの軸で活動しています。
「タイミングが合えばアメリカに戻りたいという気持ちもあったんですが、日本で仕事が軌道に乗ったので、今はこっちでいけるところまでいきたいなと。仕事もいろいろで、演奏ではアーティストのバックバンドをやることもあればレコーディングもあるし、自分のバンドをやることもあります。作家としては、歌モノや劇伴を作ったり、アレンジのお仕事もいただきます」
−クラシックはもう弾かないんですか?
「今はほぼやってないですね。レコーディングでちょっとクラシックの曲弾いてと頼まれることたまにありますけど。あとは…本番前の指慣らしにハノンは弾きますよ(笑)」
−すごく多忙で飛び回っているイメージですが、休みの日ってあるんですか?
「自由業なので、『休もうと思えば休める』というのが一番近いですかね。逆に『休む気はなかったのに休んじゃった日』もありますし(笑)。隙間時間はアニメを見たりゲームしたりしています。日本のアニメはクオリティも高いし、なにより30分で一話見切れるところが良いです」
−最近良いなと思う音楽(アーティスト)を紹介してください!
「うーん、いろいろあるけど、おすすめしたいのは『Brotherly』ですかね。アメリカで友達に教えてもらってずっと聞いてたんですよ。アルバム『One Sweet Life』は10年くらい前のですが、センスがあって大好きですし、ボストン時代の思い出のアルバムでもあります」
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−今後やっていきたいことはなんでしょう。
「既に少しずつやらせていただいていますが、プロデュース業ですね。自分がコンポーザー、アレンジャー、演者として参加できることが大前提にはなるんですが。あと、作曲家としてももっと実績を残したいです」
非常にきさくでフレンドリーな雰囲気をお持ちの岸田さんですが、プロとしてピアノを弾いていくことや、自分の人生全体に対しては、非常にストイックかつ現実的。けれど保守的に小さく行動するのではなく、直感を常に信じて行動するという大胆さもあります。
その絶妙なバランス感で、今の「売れっ子キーボディスト」という地位を確立したのでしょう。
どんなキャリアを形成するか、どんな奏者になりたいか、それらは全て自分の手にかかっている。そんなことを思い出させてくれる岸田さんのインタビューでした💡
ノリコ・ニョキニョキ
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