音楽家を志す人にとって、海外留学は憧れであり、目標でもあります。どこの国に行くかというのはもちろん、習いたい先生が教鞭を取る学校がある、あるいはその土地の音楽を学びたいという動機に基づくものですが、ご縁というのは不思議なもので、その人の個性や好みに合う土地に引き寄せられたりすることも少なくありません。
今回お話を伺ったのは、英国王立音楽院でコントラバスを学ぶ 渡邉 耕希(わたなべ こうき)さん。渡邉さんはコントラバス奏者でありながら、趣味でヴィンテージシューズを集めていて、ヴィンテージの靴や服に関するコラムを連載するなどその道のコレクターとしても知られています。
そんな渡邉さんはいつも “古き良き英国紳士” のような格好をしていて、見ればなるほどロンドンにいるわけだと納得させられます。渡邉さんがコントラバスと共にロンドンに至った理由と、その趣味の世界について教えていただきました。
渡邉 耕希(わたなべ こうき)
愛媛県出身。14歳からコントラバスを始め、高松第一高等学校音楽科に進学。関西学院大学文学部在学中にロンドンの英国王立音楽院に留学し現在に至る。その傍ら、ライターとしてウェブマガジンミューゼオ・スクエアの連載『イギリスでヴィンテージの扉を叩く』を担当している。
コントラバスとの出会い
―現在英国王立音楽院でコントラバスを学ばれています。いつもトラディショナルな格好をされていることで音楽院の中でも知られている存在ですが、まずは音楽を始められたきっかけを教えてください。
コントラバスとの出会いは、子供のころ両親にたまたま連れていってもらったオーケストラの演奏会です。演奏する姿がかっこいいなと思い惹かれたのですが、そのときは身近でコントラバスを弾く人がいるという話を聞いたことがなかったので、実際に習うという展望までは思い描けませんでした。
中学校に進学して吹奏楽部に入ると、背が高かったので大きい楽器を勧められ、初めはサックスを担当していましたが、2年生のときに顎関節症になって楽器を吹くことが難しくなってしまいました。そんな折、僕が入部前から壊れていたコントラバスが修理されて学校に戻ってきたので、部員の中で担当者が必要になりました。そこで自分のパートを変更できないか先生に尋ね、僕がコントラバスを担当することになりました。
―始められたのは部活動だったのですね。どなたかの手ほどきは受けてらっしゃったのでしょうか。
いざ実際に楽器を触ってみたときに、独学で習得するにはあまりに難しい楽器だと感じました。学校に教則本は置かれていたものの、とてもそれだけでは対応できなかったので、個人レッスンをつけてくれる方を探したところ、運良く近くで教えてくださる方に出会うことができました。
―その後、高松第一高等学校へ。普通科と音楽科のある学校です。
音楽科はひと学年およそ30人で、管楽器とピアノの生徒が高い割合を占めています。僕の学年は弦楽器が僕ひとりでした。音楽を学べる環境は嬉しい反面、クラスに弦楽器の仲間がいなかったのは少しさみしい部分もあり、特に室内楽を組む相手を探すときには苦労しました。
2年次の合奏の授業でシューベルトの『鱒』を管楽器の友人たちと演奏したときには、本来弦楽器のために書かれているパートを管楽器が吹けるよう移調譜に書き換えました。いくらか大変な作業ではありましたが、それでも室内楽をできたことは楽しかったです。
―学校ではほかにアンサンブルの機会はありましたか?
高松一高では吹奏楽に関係する楽器の生徒は吹奏楽部、声楽の生徒は合唱部への入部がそれぞれ必須です。僕も吹奏楽部で演奏していました。練習はハードでしたが、大会に出たときなど、やはり舞台で弾けることは喜びでした。
しかし僕はもともとオーケストラを聴いてコントラバスに惹かれたので、管弦楽をやりたいという思いがずっとあり、高校2年生のときに地元のジュニアオーケストラに入団しました。年に一度演奏会があって、特に3年生のときはベートーヴェンの “第九” を演奏したのが思い出深いです。難しい曲なので、とにかく必死で練習したことをよく覚えています。
関西学院大学から英国留学へ
―そして高校卒業後、関西学院大学に進学されます。およそ2年間、関西学院大学で学ばれてから、英国王立音楽院に留学されるわけですが、これは少し特殊なキャリアかと思います。どういった経緯で大学を選ばれたのでしょうか。
当初は音楽大学への進学を考えていたのですが、センター試験対策のために予備校に通い始めたところ、予備校の先生の指導がすばらしくて「勉強って楽しいな」と思い始めました。音楽高校だったので勉強に関しては二の次にしてしまっていたけれど、予備校で学力が思いがけず伸びを見せて、先生から一般大学の受験も勧められました。
結果、関西学院大学の文学部など、いくつかの学校に合格しました。小学生の頃から歴史が大好きで、歴史の教科書を読んでいるだけで楽しめるような子だったので、大学で歴史を学べたらおもしろいかもしれないと思い、また関西学院大学ならば当時師事していたコントラバスの先生のお宅も近かったので、一般大学に通い大好きな歴史も学びながら音楽家になる道を模索してみようと決めました。
―ご自身にとって関西学院大学での学生生活はいかがでしたか。
振り返ると、自分の中では学びの面で一番刺激を受けた2年間だったと言えます。歴史の学びも音楽の学びも新鮮なことが多くて、吸収するのが楽しかったんです。
―充実した学生生活の中で、留学を決心されたのはどうしてでしょう。
大学での学びがおもしろい反面、試験期間などは楽器との両立を難しく感じていました。僕としては音楽家になりたいという思いは揺らぎがなかったので悩んでいたところ、コントラバスの先生からご自身の先生が教鞭を取っている英国王立音楽院への留学を勧められました。もともとイギリス自体はその文化に興味があったし、大学は3年生になるとゼミが始まってより課題が大変になることが予想されたので、思い切って留学して音楽大学に進学することを決心しました。
―いざ留学を決めて渡航してみて、ご自身ではどのように感じましたか?
はじめは戸惑いが多くありました。語学試験やビザ申請など留学までの準備は問題なく進みましたが、いざ入学を前にして、習おうと考えていた先生が都合により休職されていることが判明しました。留学そのものに迷いも生まれましたが、行ってみたら新しい学びが待っているに違いないと信じて渡航しました。
結局その先生はお戻りになることなく退職されたので音楽院で習うことはできませんでしたが、英国王立音楽院のコントラバス科では、常に3人の先生のレッスンを並行して受けることができるため、非常に良い学びを得ています。生徒は先生方の教えの中で自分にとって一番よいと思うものを選び、それぞれの先生の教えを好きなように組み合わせることができますし、先生方もそれを念頭に指導されているので、さまざまな選択肢を与えてくれます。イギリスに来て学びの自由を感じました。
―ほかに日本とイギリスの音楽教育の違いを感じた場面はありますか。
ロンドンに来てから学校のカリキュラムに従って音楽史をやり直したわけですが、こちらの学生はみなさん頭に西洋史が入っていることが当たり前なので、授業の進め方も当然日本とは変わってきますし、そこに大きな違いを感じました。こちらにきて、日本で学んできた音楽史と西洋史が結びついていく感覚がありましたし、西洋史としっかり関連づけて学んだほうが音楽史がよりおもしろいと思いました。
―語学の面で困ったことや、カルチャーショックを感じたことはありましたか。
英語の読み書きは苦手ではなかったのですが、リスニングとスピーキングは現地に来てから苦労したところです。ただ、良かったと思うのが、英国王立音楽院は全体的に留学生が多い中で、コントラバス科はイギリス人が多いため、常に英語に囲まれている環境を持てたことです。同じ楽器の仲間との日々のコミュニケーションを通して語学力をつけることができました。
カルチャーショックと言えば、ひとつ僕にとっては大きかったのが、イギリスのお風呂はシャワールームしかない物件が多いことです。最初に住んだ家はバスタブがない上にお湯の温度が不安定で、しかも共有している人たちがしょっちゅうシャワーヘッドを落っことすせいで割れていて、水がありとあらゆる方向に出てきたんです!(笑)
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