ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。放課後の音楽室で、お茶を淹れながら「今の教科書」に載っていない音楽の話をしたいというコンセプトでお送りするこの連載。第8回目の本日は、イギリスの作曲家ドロシー・ハウエル(Dorothy Howell, 1898-1982)を取りあげます。
※コラムの最後に、この連載に連動した演奏会のお知らせがあります。
「イギリスのリヒャルト・シュトラウス」
以前、「女ベートーヴェン」と呼ばれたエミーリエ・マイエルを取り上げた際に、「女性作曲家を説明するのに権威づけで男性の名前が使われることがある」と説明したことがありましたが、ハウエルの場合は少し様子が違います。彼女は「イギリスのリヒャルト・シュトラウス」と言われているのです。なんとイギリスを背負っています。このコラムでは、そんな異名を取るに至った道のりを辿ってみましょう。
ドロシー・ハウエルはロンドンより少し北のバーミンガムという街にて、6人きょうだいの5番目として生まれます。両親ともアマチュアの音楽家で、父チャールズは市民オペラで歌ったり合唱団の指揮をし、母ヴァイオラはソプラノとして歌ったりヴァイオリンを奏でたりしていました。ふたりが「音楽で溢れる家庭」を実践しながら子育てをしていく中で、ドロシーの音楽の才能が特に秀でていることが見出されていきます。ヴァイオリンとピアノをめきめきと上達させた彼女にチャールズは簡単な和声の手ほどきをし、ドロシーは音楽を組み立てる仕組みを次第に覚えていきました。
子ども時代のハウエルが憧れていたのは、エドワード・エルガー。1904年に騎士(ナイト)の称号を与えられたエルガーはイギリス音楽の生ける象徴として認知されていた上、バーミンガム大学で教授を務めていた経歴があるため、10歳に満たないハウエルにとっては「身近な偉人」だったのです。しかもエルガーは自身と同じくカトリック教徒だったことは、ハウエルが憧憬を抱く理由には充分でした(イギリスでは英国国教会の信者のほうが人口が多い)。

ハウエル一家、後列右端がドロシー(引用:University of Birmingham)
ホームシックの寂しさを音楽制作に昇華させる
ハウエルは中等教育の年頃になると姉たちとともにベルギーの寄宿学校に送られました。両親と離れて暮らし、その上大好きなピアノやヴァイオリンに触ることができない学校生活が性に合わず、彼女は帰省の日程を指折り数えて耐え忍びます。ホームシックの中で彼女を癒してくれたのは、譜面を書いて音楽を作ることでした。
ドロシー・ハウエルの幸運は両親が女性の活躍に対してリベラルな見識を持っていたこと。当時の感覚で言うと、女性が演奏家になること自体にもバリアがたくさんありましたが、作曲家なんてもってのほか、と捉えられるのが一般的でした。
歴史研究家のリア・ブロード氏は、ハウエルの環境と少し先の時代を生きるエセル・スマイスとを比べて、ここに社会が変化が見られると指摘しています。このコラムの第4回でも取り上げた通り、スマイスは作曲の勉強を父親に反対されたため、機会を勝ち取るために部屋に立てこもってプロテストをおこなう必要がありました。しかしハウエルの場合、彼女が初めて作品を見せたときに、父親は「ドロシー・ハウエルの Opus 1(作品番号1番)」として出版をお膳立てしたのです! それは11歳のころのことでした。
しかも父親はその譜面をバーミンガム大学の教授である作曲家グランヴィル・バントックに送ります。シベリウスやリムスキー=コルサコフ、リヒャルト・シュトラウスらに影響を受けた後期ロマン派の作風を持つバントックはすぐさまハウエルの個人教授を引き受け、ここから2年ほど彼女に専門的な音楽教育を施します。この2年間のあいだに、ハウエルは両親にベルギーから帰りたいと懇願し続けて、説得の末にやっと実家に戻れることになりました。そしてバントックは彼女により高度な音楽の勉強を薦めるのです——すなわち、国内で一番権威のある英国王立音楽院の受験をしてみないかという提案でした。
先述の通り彼女が作曲の勉強を重ねることに両親は好意的でしたが、そんな両親でも初めは王立音楽院の受験にやや及び腰でした。理由は中等教育の勉強が途中であることと、男女共学だから。男女別学が当たり前だった時代に、うら若い男女の学生が校舎を共にしているというのはかなりご法度という感覚だったようで、事実、王立音楽院が共学であること、そして教員の性別も生徒によって分けられていないことは世間からたびたび批判されていました。そしてカトリック教徒は世間一般よりもさらにこの点には敏感でした。
でも専門教育の現場では、当時ですら“性別で活動をわけることは不都合である”と認識されていました。たとえば個人レッスンで「すぐれた教員がすぐれた生徒を指導する」とき、また「学生オーケストラを編成して交響曲を演奏をする」とき、性別によるバリアは単純に邪魔だったのです。
結局はハウエルの両親も心配以上に娘の活躍を願って、受験を後押し。ハウエルは15歳で入学試験を突破し、そして空いた時間で中等教育の学校にも通って一般科目の勉強も続けることになりました。

(引用:Stainer & Bell)
戦時下の学生時代、辛抱が生んだ代表作
当時の英国王立音楽院では、演奏と作曲の両方を専攻することが通常でした。ハウエルはピアノと作曲の師匠を得て、水を得た魚のように吸収していきます。その成長ぶりは周囲も認めるところで、師事していた先生から学内の作曲コンクールに出品してみることを勧められたり、学内のピアノコンクールを受けてみたりするのですが、実はその結果は常に芳しいわけではありませんでした。
もともとの性格が控えめだったので、人前でその闘志を表に出すことはありませんでしたが、内心では「どうして自分が選ばれなかったんだろう」と悶々。特に腕を上げた自信を得てからは「自分を選ばないなんて審査員はとんでもなくもったいないことを……」とも思っていたようです。でもその悔しさをバネに変えて、別のコンクールで優勝を勝ち取ってリベンジを果たすなど、次第に結果につなげていきました。
時は第一次世界大戦。とはいえ、長兄カルロが出征したことを除いて、ハウエル本人の暮らしは淡々としていて、できることと言えば勉強に没頭することと定期的におこなわれるチャリティーコンサート*に出演することくらい。ロンドンにも負傷兵がいたり空襲がおこったりと戦況は悪化するものの、日々のルーティンを決めて黙々とこなすことでハウエルは精神を保っていました。
戦時下のイギリスでは、“国への貢献”として音楽家が募金を集める演奏会がしばしばおこなわれていた。
内側に情熱を秘めながらも控えめに生きていたハウエルを変えたのは、カルロの戦死です。出征前にはロンドンの下宿まで顔を見せにきた兄が、死んでしまった——悲しみの中、人生は不意に終わってしまうと悟った18歳のハウエルは「やりたいことはやっておいたほうが良い」と思い、オーケストラの楽曲を書き始めます。
書き上げた曲のピアノ版をひっそりと日々のチャリティーコンサートの中で披露してみるものの、納得できずに譜面を楽譜の山の中に埋めたりしながら、ハウエルはやがて自分が描くべき素材を見つけます。カルロが好きだった詩人ジョン・キーツの作品『ラミア』を交響詩にする。そうと決めたら毎朝の作曲の時間にせっせと筆を進めます。その執筆は、王立音楽院の卒業、そしてピアニストとしてロンドン市内の大舞台エオリアン・ホールでのデビュー・リサイタルに臨むあいだにも続けられます。
卒業にあたって、長男を亡くした両親が寂しさや不安から「バーミンガムに帰ってきてほしい」と言う中、王立音楽院の師匠たちがハウエルを引き留めます。ピアノの師匠であるトバイアス・マッセイには稼ぎ口になるようにピアノの生徒を見つけてこようと言われ、作曲の先生だったジョン・マキュアンはハウエルの親に手紙を書き、「音楽家としてのキャリアはロンドンのほうが機会が多いはず」「性別抜きに、とにかく彼女は類いまれな才能を持っているんです」と彼女がロンドンで生活できるよう支援を求めました。その甲斐あって、ハウエルは両親の援助を受けつつ、引き続きロンドンに住まい『ラミア』の作曲に勤しみます。
そしてここで皆さん大好き(筆者が好きなだけ)ハウエルの野心が現れます。「どうせなら夢は大きく持とう」。ハウエルが世に放たれたのは1919年。一時大戦が終わったあとで市民の愛国心が強まる中、英国の作曲家による英国らしい作品を求める機運が高まっていました。どうしたら自分の管弦楽作品を演奏してもらえるだろうかと考えたときに、思い浮かんだのはロンドンの音楽文化の中心的存在である夏の音楽祭プロムスでした。この際だからプロムスの音楽監督に譜面を送ってみようか——ハウエルは完成した『ラミア』を、大胆にも時の音楽監督ヘンリー・ウッドに送りました。
そして奇跡は起きます。ヘンリー・ウッドは譜面を見て才能を見抜き、すぐさまハウエルに連絡を取ります。直接会って話をするうちに、彼女の誠実な姿勢に好感を持ちました。1919年9月、その年のプロムスで初演された『ラミア』は一夜のうちにとんでもない人気を博し、シーズン中にさっそく5回の再演がなされました。指揮をしたウッドはのちに「イギリス人作曲家の作品としては異例のことで、女性作曲家にとっては大成功」というコメントを残しています。この成功を各紙も軒並み取り上げ、その中でハウエルは「Our New Composer at Home(新しい我々の作曲家の登場)」「“The English Strauss(イギリスのシュトラウス)”」と評されたのです。
時代も味方したハウエルの活躍
先出のブロード氏は、ロンドンの学校を卒業した地方出身の独身女性であったハウエルが、こうしてロンドンに居残ることができたのはやはり時代が味方した部分もあると言います。この10年ほど前にスマイスが女性参政権運動に参加して投獄されたことが大きく報道されるなど、“女性作曲家”という存在が可視化されていたことが大きく影響したはずだ、というわけです。
スマイスは急進派と呼ばれたWSPUに所属して社会活動をしていました。WSPUが権利の獲得のために過激な手法をとったことは、当時も今も必ずしも肯定されるばかりではありません。ただ、ハウエルが毎朝“黙々と”作曲できる環境を得られたのは、スマイスのような存在の恩恵を受けています。
もちろんハウエル自身も努力は重ねました。でも“闘う”スマイスと“静かに燃える”ハウエルを並べたときに、時代が10年ずれていたら物語はまったく違っただろうと考えざるを得ません。スマイスも時代が違えば「郵便ポストを爆破する」ような抗議行動をする必要がなかったはずです。
ハウエルという作曲家の活躍があったことを祝福しつつ、スマイスが聴力をすり減らしてまで闘ったことにも思いを馳せつつ、そして両方ともが死後急速に忘れられた不遇を思いながら、冒頭で引用した本日の1曲ことドロシー・ハウエル『2つの小品』から《あいさつ》(1956)をお聴きください。動画内で淹れたお茶は「Ace Tea」というイギリスのブランドの「Fruit Cocktail」という茶葉。トロピカルフルーツが香る、みずみずしいフレーバーです。
コラムが、動画が、本物の演奏会になる!
こちらの連載・動画シリーズでこれまでに演奏してきた楽曲を集めて、筆者こと原田真帆は昨年演奏会をおこなったのですが、このたびその続編にあたるリサイタルをおこないます。開催は2026年6月6日、15時開演です。今回はハウエルのヴァイオリン・ソナタ(日本初演)および同時代に活躍したレベッカ・クラークのヴァイオリン・ソナタ(日本初演)がメインです。このコラムで取り上げた『2つの小品』も演奏します。
本公演は会場券とライブ配信券を用意しています。会場券は抽選で、お申し込み期間が2026年4月2日の23:59まで。抽選お申し込み期間が過ぎたあとは、キャンセル待ちウェイティングリストをご案内します。
そして配信券は5月25日から6月6日まで、お申し込みいただいた全ての方にお聴きいただけます。配信は当日の15時の開演時からのライブ配信はもちろん、公演4週間後までアーカイブ配信のご視聴も可能です。配信はYouTubeの「メンバーシップ登録者限定配信」の形でお送りいたします。
詳しくは下記の特設サイト、またその下の動画にてご案内しております。ぜひ、コラムで触れた音楽を実際にお聴きいただけましたら幸いです。
参考文献
by Birmingham City Council. “Background | Dorothy Howell | Birmingham City Council.” Birmingham.gov.uk, 2026. https://www.birmingham.gov.uk/info/50137/music_and_performance/1464/dorothy_howell.
Broad, Leah. “Dorothy Howell.” @readly, 2023. https://gb.readly.com/magazines/bbc-music-magazine/2023-02-21/63e4b0e47f32d596307c57dd.
———. Quartet. London: Faber & Faber, 2023.
Byrne, Vincent James . “The Life and Works of Dorothy Howell.” 2015. https://etheses.bham.ac.uk/id/eprint/6296/1/Byrne15MA.pdf.
Hyperion Records. “Dorothy Howell.” Hyperion Records. Accessed April 1, 2026. https://www.hyperion-records.co.uk/c.asp?c=C6256.
Stainer & Bell. “Dorothy Howell – Stainer & Bell.” Stainer & Bell, 2026. https://stainer.co.uk/composer/dorothy-howell/.
Wikipedia Contributors. “Dorothy Howell (Composer).” Wikipedia. Wikimedia Foundation, March 26, 2026. https://en.wikipedia.org/wiki/Dorothy_Howell_(composer).
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